たまには国語塾らしいことも書かないといけませんね。ということで、今日は「言葉の移り変わりをどう考えるか」について。
皆さんは言葉(特に話し言葉)の移り変わりをどうお考えになりますか?
思うに、言葉は変遷を続けるもの。果てしなく移り変わってゆきつつも受け継がれてゆくのは、その言葉・言語の持つ生命力の証。そんなわけで、私は、言葉が移り変わってゆくことを大いに肯定すべきだというスタンスに立っています。
世界各国の言語をすべて知っているわけではありませんが、日本語はかなり変遷の度合いが大きく、そのスピードも速い言語ではないかと思います。実際、平安時代や鎌倉時代の古文はおろか、明治時代の文語文レベルでも、普通の人には読みにくいわけですからね。アイスランドなんかだと、言語の変遷があまり起きなかったため、300年以上前の文章を小学生がスラスラ読めると聞いたことがあります。
正直に言うと、「言葉」に異常なほど興味を持っているので、新しい言葉が次々に現れ出てくるような状況の方が好きなだけなのかもしれませんが……。
新聞の投書欄なんかを見ていると、定期的に出てくる意見があります。「最近の言葉の乱れはけしからん」「若者言葉の乱れを正さねばならない」「かつての美しい日本語を取り戻すべきだ」といった意見です。
一応私も人に言葉を教える立場にいるので、そうした意見にはとりあえず「なるほど、その通りですね」と相づちを打っておくんですが、先述の通り、本心では全くそうは思っていません(笑)。
「へぇ、すごいですね。ということは、普段から平安時代の文語文法で文章を書いていらっしゃるんですよね?もちろん、使われる語句も古語でいらっしゃるんですよね?漢字はすべて辭書も使わず舊字體でお書きなんですよね?否、萬葉假名をお使ひでせうか。らうがはしき言の葉にて語りたる失禮を許して給べ。向後、貴殿には古の言の葉にて何くれ申し侍らむ。」
なんて嫌味の一つも言ってみたくなります。意地悪ですね。もちろん本当には言いませんけれど(笑)。
でもね、「言葉の乱れ」なんていう観念は、本当に主観的なものだと思うんですよね。自分が学んできた語彙や文法だけを正しいものだと考え、新たな言葉を認めないという姿勢は、頑なに過ぎると思います。
だいたい、「最近の言葉の乱れはけしからん」「若者言葉の乱れを正さねばならない」なんておっしゃる人の使っている言葉は、吉田兼好や清少納言に言わせれば、最低最悪に乱れ、汚濁しきった言葉です。いや、日の本の言葉とすら認めてもらえないでしょう。
徒然草第22段にこんな文章があります。吉田兼好が、故実に明るい人の言葉を引用して、自らの意見を補強しているところです。
いにしへは、「車もたげよ」「火かかげよ」とこそいひしを、今様の人は、「もてあげよ」「かきあげよ」といふ。
昔は「車もたげよ」「火かかげよ」とか言ったものだけれど、今の人たちは「もてあげよ」「かきあげよ」なんて言う。(けしからん。ムキ〜ッ!)
意訳すればこんな感じなんですが、現代人には、どうして「車もたげよ」が良くて、「車もてあげよ」が下品に聞こえるのか全く分からない(笑)。ちなみに、現代人なら「持ち上げろ」というところです。
今まで身につけてきた言葉を忘れろと言いたいわけではありません。今まで学んだ言葉を元に、また新たな言葉が生み出す沃野を楽しめばいい。そして、自らもそうした言葉の変革の一翼を担っているんだと考えられれば、なお楽しいんじゃないでしょうか。
なお、新たな言葉を理解したり楽しんだりすることと、それを実際に使用することはまた別の話です。(兼好も書いていますが)世間では教養がないと見なされると、馬鹿にされてしまいますし、入試ではバツを食らうことになってしまいます。
「ちゃけば、こないだもらった桃、ゲロうまでぇ、ウチのじーばーテンあげ↑」
なんて大人が話すとヤバイです。
「過日頂戴いたしました桃が、大変美味しゅうございまして、当方の祖父祖母も大層喜んでおりました。」
と言うようにしましょうね(笑)。
最後にギャル語の日本昔話。マヂうける。ちゃけば、もきゅい!
日本昔話をギャル語に訳した結果wwww