ある歌にこんな文句があります。
「最近の曲なんかもう、クソみたいな曲だらけさ!」
(神聖かまってちゃん「ロックンロールは鳴り止まないっ」)
まあ、その通りなんですけれども(笑)、ただそれは最近に始まった話ではないと思うんですよね。どこで読んだかは思い出せないんですが、ギタリストの中のギタリスト、エリック・クラプトンも、「聴くに値する曲はすべての内の2割だ。あとは全部クソだ。」と言っていたはず(ひょっとしたら「2%」だったかも)。
何れにせよ、ほとんどの曲は下らないものであり、まともに付き合っていては時間が足りない、味わうべき音楽を味わえ、人生は有限だ。Life is too short to play silly games. という主張ですね。
私、楽器演奏もできず、作曲もできませんので、偉そうに言えるような立場でないことは重々承知しておりますが、やはり上記のような主張には深く頷かざるをえません。
これは音楽だけに限った話ではありません。小説にだって、映画にだって、演劇にだって、全部同じことが言えます。下らない小説は途中で投げ捨てればいいし、つまらない映画は途中で席を立てばいい(ちょっと勿体ないけどね)。
少し話は逸れますが、世の中って醜いことであふれ返っていますよね。ニュースを見ていると、人間というものは、よくまあこれだけ醜いことが出来るものだとあきれるほどです。人を殺したり、騙したり、差別したり、貶めたり、ねたんだり。
もちろん私も修行僧ではありませんので、高みに立って見物できているわけではなく、そうした醜い世の中(仏教で言うところの「濁世(じょくせ)」ってやつですね)で同じような暮らしをしているわけですけれど、この歳になってみると、「もうそういうゴチャゴチャしたんはええわ、だれかやりたい人でやっといて」という気になってきます。
学生の頃なんかは、社会悪を見据え剔抉するような行動をスケールの大きな話だと考え、それなりに興味を持っていたんですが、今になってみると、もうそんなのどうでもいいかなと(笑)。
(人間の醜い部分を徹底的に追及する人々を馬鹿にしているわけでは決してありません。それはそれで社会に必要なことだということもよく分かっているつもりです。)
世の中にあふれ返っている醜いものや人を見つめたり、それらに触れたりするようなのは、自分の生活には必要ないな、人間の美しいところや、人生の美しいところだけを見つめて生きてゆきたいな。自分勝手かもしれませんが、そんな思いが年々強くなってゆく。
私が見たいのは、例えば、かよわい存在がけなげに逆境に立ち向かってゆくところ。例えば、ふとした拍子にある人の誠実さが垣間見えるところ。例えば、ある人が脇目も振らず一つの道に邁進するところ。
人生は短いですよ、本当に。この記事をお読みくださっているあなたが何歳でいらっしゃるかは存じ上げませんが、あと100年は生きられないですよね。100年後には私もあなたもこの世にはいません。人間誰しもが、残り僅かな余生を生きていると言っていい。
そんな貴重な人生を、醜いことに浸って生きるなんて、私には愚の骨頂に思えてなりません。
私の好きな音楽家、早川義夫さんがおっしゃっていました。「僕が興味をもっているのは三つだけ。楽しいこと、スカッとすること、エッチなこと。ただその三つにしか興味がない。」
三つ目は塾ブログなので、ちょっと「同意します!」とは言いかねるんですけれど(笑)、「楽しいこと、スカッとすること」については多いに賛同します。おそらくは、私が思っていることと軌を一にしているんじゃないかと。
人生から醜さを排除して、人間・人生の美しさや妙味に触れられるように、自分を高めてゆく。その手段の一つが「勉強」なんじゃないかな、なんて思っています。
最後は塾ブログらしくまとめられたかな?