2018年 大学入試センター試験 国語 問題解説 (古文編)

昨日(2018.01.13)実施されたセンター試験国語の問題を、先ほどさっと眺めてみました。個人的には古文がとても面白い。

私、本居宣長先生のファンなんです。いつか本居宣長全集を手に入れて読破してみたいと思っているんですが、全23巻とあって、なかなか果たせない。老年期に入ってからのとっておきの楽しみとして、あえてまだ手を付けていないという面もあるんですけどね。

ちなみに私の場合、今回の問題だと、本文読解+問題解きに掛かる時間は大体5分程度。古文速読ができるのです(笑)。もちろん、全問正解でしたよ。エヘン。まあ、職業ですので、自慢するほどのことではありません。

多分、現時点ではどこの予備校も解説を出していないでしょうから、古文(第三問)について、最速版解説・宮田国語塾版としてある程度の分量を書いてみたいと思います。ただ、時間があまりないので、短い解説にとどまるところも多いかも。日曜日も朝一から仕事なのです。ごめん。


古文の出典は、本居宣長『石上私淑言(いそのかみのささめごと)』。歌論書ですね。センター試験の場合、和歌が絡む問題が出題されると、平均点が下がるイメージがあるんですが、無理もありません。和歌は古文であるのみならず、三十一文字(みそひともじ)と呼ばれるように、たったの31文字という少ない文字数で何らかのメッセージを伝えようとしているわけですから。

加えて、「俺、和歌が大好きなんだよな」「私、和歌を愛してるの」なんて高校生はいないと思うんですよね。文学青年・文学少女はいるかもしれませんが。いや、漫画「ちはやふる」の影響で、和歌マニアの高校生もいるのかもしれないですけど(笑)。

ただ、今回は歌論ではありますが、具体的な和歌が取り上げられている訳ではありません。あくまでも抽象的な歌論であって、ある意味、評論文的な感覚の文章です。そういう意味で、例年よりも論理性が高く、受験生にとって処しやすい問題だったのではないかと思います。もちろん、「ちゃんと国語のトレーニングを積んできた」受験生にとって、という前提付きですが。

あと、本居宣長(以降「宣長先生」とします)の文章にある程度親しんできた人、言い換えれば、宣長先生の思考パターンをある程度理解している人には、かなり有利な問題だったんじゃないでしょうか。

私が思うに、宣長先生はとてつもないロマンチストなんです。それもかなり浮世離れした。そしてとにかくまっすぐな向学心を持った人。小賢しいところなんて欠片もありません。私は、そんな先生を密かにお慕い申し上げているんですが、今回の出題文もやっぱりそうした宣長先生の美質が遺憾なく発揮されていると思います。

何だかどんどん脱線しそうなので、そろそろ問題の方を中心に見ていきましょうね。

第1問(ア)

重要古語の解釈です。

まず、「あながちなり」から。

この単語は、漢字の表記を覚えておくといいですね。「強ちなり」と書きます。「強」という漢字は、「ストロング」の意味だけではなく、「無理やり」という意味も持っていますよね。熟語を例に出せば、「強盗」とか「強要」とか。ということで、「無理やりなさま」というのが第一の意味ですが、選択肢には見当たりません。

次に覚えておかねばならないのは「ひたむきだ・一途だ」という意味。これもイメージ的には、上記の意味と重なりますよね。「人の意向なんて全然気にせずガンガン行く」というところが共通しているわけです。

ここまで理解していると、選択肢2.3.4あたりは全くダメということが分かるでしょう。ガンガン行く感じがありませんからね。

次に、「わりなし」。

これも元になる漢字表記を知っているといいですね。「理(ことわり)なし」から来ている言葉なんです。つまり「道理に合わない」ということ。そこから、「めちゃくちゃだ、分別が付かない」なんて意味が出てきます。

合わせて傍線部を直訳すると、「ひたむきに道理に合わない」といったところですね。この時点で選択肢1だろうと当たりは付きますが、一応文脈と照らし合わせましょう。傍線前後の現代語訳をしておくと、

「恋愛のことを思うよりも、自身の栄達を願って財産を求める心などの方が、『傍線ア』見えるであろうのに、どうしてそうした様子のことは歌に詠まないのだろうか。」

選択肢5を代入すると、「無粋なのにどうして歌に詠まないのか」となって意味不明。無粋なら歌に詠むはずがない。だから、選択肢1が正解。「恋より銭金に対する方が、人間って「ひたむきで抑えがたく」見えるのに、どうしてゼニのことを歌に詠まないのかな?」という感じです。

第1問(イ)

授業でもよく言うんですが、「いかに」というのは英語の「how」です。「あれ」は動詞「あり」。その知識だけで、選択肢3が正解と言っていいように思いますが、一応もう少し文脈を見ると、こうなっています。

「情から出て欲につながることもあり、また欲から出て情にもつながることもあり、同じ様子ではなく、様々なのだが、『傍線イ』歌というものは情の方から出てくるものなんだ。」

この文脈に、選択肢3「どのようであっても」というのはぴったりですね。

第1問(ウ)

これも重要古語の解釈です。

さらに」は下に打消の語を伴って「決して、全く」の意味。超基本語です。この時点で、選択肢5しかありません。これは絶対に落とせない問題だと思います。

あと、「なつかし」もやっぱり基本語ですね。古語では「心ひかれる」という意味になります。必ずしも、昔のことを思い出すという意味ではありません。動詞の「なつく」は現代でも同じ意味で生きていますよね(例:子犬がなつく)。これの形容詞版と思っておくといい。

いずれにせよ、選択肢5しかあり得ません。

第2問

素直に品詞分解しておきましょう。これも絶対に落とせない基本問題の一つだと思います。

「身/に/しむ/ばかり/細やかに/は/あら/ね/ば/に/や」

身:名詞
に:格助詞
しむ:動詞
ばかり:副助詞
細やかに:形容動詞
は:係助詞
あら:動詞
ね:助動詞(打消「ず」)
ば:接続助詞
に:助動詞(断定「なり」)
や:係助詞(疑問)

選択肢1→適当

「ね」が打消の助動詞「ず」だと気付く必要があります。打消の助動詞「ず」は未然形接続、完了の助動詞「ぬ」は連用形接続ですから、明らかにここは打消の助動詞。

選択肢2→適当

最後の方の「にや」は絶対に判別できないとダメです。高校生として普通に古文の勉強をしてくれば、少なくとも100回は目にしている表現のはず。いや、ホントに。

「にや(あらむ)」という風に「あらむ」が省略されている形ですね。「に」は断定の助動詞「なり」の連用形。「や」は疑問の係助詞。「〜であろうか」という意味の典型パターンです。

選択肢3→不適当

接続助詞「ば」の理解。大ざっぱに説明すると、接続助詞「ば」は、未然形に接続すれば仮定条件、已然形に接続すれば確定条件(原因・理由)を表します。

ここは「ね」、つまり、打消助動詞「ず」の「已然形」に接続していますから、仮定条件ではありえません。

選択肢4→適当

上記の品詞分解参照。

選択肢5→適当

上記選択肢2の説明参照。

第3問

ここからは文章解釈の問題。消去法を取るべきなので、本当なら全選択肢を解説したいところですが、時間がないので正解肢のみを取り上げることとしますね。ゴメン。

まずこの「恋の歌の世に多きはいかに」という問いですが、これに対する答えは、本文の第2段落にあります。というか、それ以外の段落を見てはいけません。「問ひて云はく」に対応して「答へて云はく」と言っているわけですから。

本文第2段落の前半は、古代の和歌にはすごく恋の歌が多いよね、特に万葉集なんかは相聞(さうもん)といって、恋の歌をメインにしているよね、という話。

本文第2段落の後半は、前半の理由説明。なぜかって言うと、「恋はよろづのあはれにすぐれて深く人の心にしみて、いみじく堪へがたきわざなるゆゑなり。」つまり、「恋ってどんな感慨よりも深く心にしみるよね、本当に耐え難いぐらいにね。」というわけです(かなり意訳です)。

宣長先生のこういうところが好きなんです。真面目な顔をして「恋って本当に素晴らしい」とおっしゃるわけですから。乙女チックな先生に、大いに共感を覚えます(笑)。

ということで、正解は選択肢2。

第4問

「情と欲とのわきまへ」と恋との関係。

これは本文の第4段落に解答が用意されています。要約してみましょう。

第4段落の1行目。

人の心に浮かぶ思いはすべて「情」なんだよ。

第4段落の3行目。

だから「欲」も「情」の一種と言えるけれど、人を恋しく思ったり、愛しく思ったりするような感情を、特に「情」と言ってきたんだよね。

第4段落の7行目。

で、財宝を欲深く欲しがるような気持ちは「欲」と呼ぶんだけど、こういう感情からは和歌って生まれてこないんだよね。

第4段落の8行目。

恋も元はといえば「欲」から出てくるんだけど、とりわけ「情」に深く関係する感情であって、生きとし生けるものは、みんな恋から逃れられないものなんだよ。

これ、恋に生きる乙女が話しているのかと思いますよね。「みんな恋から逃れられないのよ!」って(笑)。でも、私からすると、いかにも宣長先生らしい主張。こういうところが好きなんです。

おっと脱線。少しだけ選択肢のおかしなとところを指摘しておきましょう。

選択肢1:哀れだ、いとしいといった思いは「欲」ではない。
選択肢2:受動的・能動的の別は示されていない。
選択肢4:恋を「成就させる」話は示されていない。
選択肢5:自然賛美と人間の作った価値観の対比は示されていない。

ということで、第4段落の素直な要約になっている選択肢3が正解。

第5問

第5段落に関する問題です。

第5段落の要約(かなり意訳しています)。

後世になると「情」は弱い感情として恥じるようになっちゃったんだよね。だから「情」は「欲」よりも浅薄な気持ちだと見えたんだ。

でも、和歌だけは上代の気概を失わなかったんだ。心をありのままに詠んで、女々しいとか心弱いなんて風に恥ずかしがることは全く無かったんだよ。後世に至っても、優美な和歌を詠もうする人は、「もののあはれ=情」を重要視して、「欲」なんてクソ喰らえ、詠む価値なんて無しと思ってきたんだね。

ということで、選択肢4が正解。

選択肢2は少し迷うかも知れませんね。「「情」は「欲」に比べると弱々しい感情なので」と断定しているところが間違いです。本文では「かへりて欲より浅くも見ゆるなめり(かえって情は欲より浅くもみえるようである)」と言っているだけです。つまり、宣長先生は、「本当は「情」>「欲」なんだけど」と考えているわけですね。

第6問

最終段落に関連する問題ではありますが、ちょっと難しい問題かも知れません。宣長先生の中国に対する辛辣な姿勢を知っていれば、簡単なんですけどね。

以前、当ブログにこんなことを書いたことがあります。

森友学園「瑞穂の國記念小學院」問題を塾運営者から見る

万葉集や古事記を解釈するためには、漢籍の影響を徹底的に排除すべし、「からごころ(漢意)」を棄てて「やまとごころ」に従うべし、というのは本居宣長の著作全体に響き渡る通奏低音のような主張なんですが(以下略)

これと同じようなことが最終段落にも言えます。

最終段落の要約(やはり意訳しています)。

漢詩って、汚くて情趣のかけらもないような「欲」という感情をよくテーマにするんだよね。あちらの国(中国)って、そんなのを素晴らしいって言うんだけど、なんじゃらほい・イミフって感じだよね。

そんなにはくだけてないか(笑)。まあ大意は合っているので、選択肢4が正解になることはご理解いただけるかと。つまり、選択肢4が、もっとも厳しく漢詩をディスっている(非難している)わけですね。

勝手に本居宣長先生に弟子入りさせていただいる私ですが、ここは違和感を感じる主張です。そこまで漢詩をディスらなくてもいいんじゃないんでしょうか、先生……。

でも、宣長先生は別に民族差別や国差別をしているわけではないと思います。純粋に文学論議をして熱くなっていらっしゃるだけだと、私には見えます。


最後になりましたが、このセンター試験出題を機に、本居宣長ブームが起きないかなと、少し期待します。みんなもノリーブームにノリー遅れるな!

間違いなく先生に叱られるな……。

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