司馬遼太郎氏は「言葉」や「国語」に関するエッセイをいくつか残しておられます。
氏の国語教育に関するエッセイで、是非紹介したい部分があったんですが、どこで読んだのやら思い出せずにいました。それぐらい探せと言われそうですが、司馬遼太郎のエッセイだけで20冊程度あるので、探す時間が…。
ところが先日、意外なところから発見しました。中学入試国語の問題です。早速引用してみましょう(孫引きですがご容赦)。
国語力は、家庭と学校で養われる。国語力にとっての二つの大きな畑といってよく、あとは読書と交友がある。
国語力を養う基本は、いかなる場合でも、
「文章語にして語れ」
ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境(つまり単語のやりとりだけで意志が通じあう環境)では国語力は育たない。
(中略)
そういう場合、その人の精神生活は、遠い狩猟・採集の時代とすこしもかわらないのである。
(中略)
ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、何をいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。
(司馬遼太郎「十六の話」から引用)
生徒と雑談していると、答案などを見ずとも、だいたいの国語力は見当が付きます。こちらの問いかけに、主語述語の対応したしっかりとした言葉で的確に答えてくれる生徒は、まず間違いなく国語力が高い(ひいては学力全般が高い)ですし、逆に何度も聞き返さないとならないような返答をする生徒は、国語力に問題があることが多いといえます。
例えばこんな感じです。
(当塾、大阪にあるので思いっ切り関西弁で喋っています)
私「今日の遠足はどこに行ってきたん?面白かった?」
A君「僕たちは中之島の科学館に行ってきてん。玉造駅から地下鉄に乗って。向こうの駅からはちょっと歩いたけど、友達と話しながらやったから意外に早く着いたよ。すごく面白い展示があったから楽しかった。特にプラネタリウムがめっちゃ楽しかった!」
B君「なんか星見るとこ。わからん。」
A君B君いずれの国語力が高いかは、言うまでもないでしょう。(ただ単に恥ずかしがりなだけで、言葉数が少ないケースもありますが…。)
もちろん、まだまだ発展途上の生徒達ですから、そこを直してゆくのが我々の仕事。でも、できればご家庭でも、「単語のやりとりだけ」という環境を避けていただければ、と思います。
単なる勉強・受験レベルの話ではなくて、
国語は (中略) 将来、子供たちが生きてゆくための唯一の生活材であり、精神材であり、また人間そのものを伸びさせるための成長材でもある。
(司馬遼太郎「十六の話」から引用)
のですから。