万葉集・大伴熊凝の歌

久々に少しブログを書く時間が取れました。昨日読んだ万葉集の歌について書きます。


大伴熊凝(おおとものくまごり)という人がいました。肥後の国(今の熊本県)の人です。良く出来る人だったのでしょうか、18歳の時、ある国司の従者となり、都に向かいました。ところが不幸なことに、安芸の国(今の広島県)で病気にかかり、そのまま没してしまいます。

山上憶良がそのことを悲しみ、追悼文と哀悼歌を残しているんですが、万葉集には熊凝自身の歌と、憶良の追悼文・哀悼歌が並んで掲載されています。

大伴熊凝の歌

朝霧の消易きあが身他国に過ぎかてぬかも親の目を欲り
(あさぎりの けやすきあがみ ひとくにに すぎかてぬかも おやのめをほり)

意訳してみましょう。

朝霧が消えやすいように我が身も消えてゆく。でもこのような他国では死んでも死にきれぬ。父と母に会いたくて会いたくて。

天平時代の18歳といえば十分大人だったのかもしれませんが、そこはやはり18歳。現代と変わりのない青年がいます。妻や子に残す歌ではなく、父母に残す歌が、親子の仲の良さを裏書きしていて、胸に迫ります。

私も人の親になって、子を喪うことがどれほど辛いことであるのかが想像できるようになりました。熊凝君の無念ももちろん理解できますが、それ以上に、今の私には、残されたご両親の深い悲しみが思いやられます。自慢の息子が意気揚々都から戻ってくるのを心待ちにしていたのに、旅の途上で空しくなるとは……。切なくて堪らない。

山上憶良は追悼文の中で、彼の肉声を伝えます。

「(どのような聖人も死を免れることは出来なかった以上、私が死ぬこともやむを得ないという文章の後で) 哀しきかも我が父、痛ましきかも我が母。一の身の死に向ふ途を患へず、唯し二の親の生に在す苦しみを悲しぶ。今日長に別れなば、いづれの世にかまみゆるを得む」といへり。

熊凝君の言葉を意訳してみましょう。

悲しいよお父さん、痛ましいよお母さん、自分が死の道に赴くことは構わないけれど、ただ、父母がこの世で悲しみに暮れて生きてゆくことを思うと悲しくてならない。今日永遠に別れを告げたなら、一体どの世で会うことができるんだ!

天平時代にも「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」という常識があったのでしょうか、親子の縁はこの世だけに限られていて、来世で会うことは叶わないということから来る熊凝君の悲痛な叫びです。

妻や子にではなく、父母に心を残しながら亡くなっていった熊凝君の歌は、18歳の若さとそれ故の切なさを今にまで伝える名歌だと思います。