引きこもりの背景

GWということで、お子さんと一緒にお過ごしのお父さんお母さんも多いかもしれません。子どもの頃は、父母がもっと一緒に過ごしてくれればいいのにと思っていましたが、大人になってみると分かりますよね。仕事や用事や何やかやで忙しく、子どもと過ごす時間を十分に取ることはなかなか難しい。

加えて、最近は子どもの方も忙しい。中学受験するとなれば、勉強を中心に置いた生活になりますし、受験をせずとも、塾やら習い事やらスポーツやらでやっぱり忙しい。当塾もある意味、お子さんの時間を「奪って」いる張本人ではあります。

子どもが中学生ともなれば、自分の世界を持ち始めるでしょうから、そうそう一緒に過ごす時間は取れないはず。まして、大学進学で地元を離れたりしようものなら、職もその土地で見つけたよ、結婚相手もその土地で見つけたよ、という風になって、一緒に過ごすこと自体がほとんど無くなっていくでしょう。実際、高校大学時代の友人を見ていると、みんなそんな感じですから。

それはごくごく真っ当なこと・喜ばしいことなんですが、親の立場になってみると、少しばかり寂しい気持ちになることでもあると思うんですよね。頑張ってきた仕事も落ち着いたぞ、家族とゆっくり過ごせる時間がようやく取れる……と思ったら、今度は子ども達世代の方がバリバリ活動していて忙しい。

日本人を初めとして、アジア人ってどっちかというと、親子の距離が近い、悪く言えばベッタリしている傾向があると思うんですが、そういう傾向を持つ人々からすると、上記のような話はとても寂しく感じるものではないでしょうか。少なくとも私はとても寂しく感じます(笑)。

この子が自分の元から離れていくぐらいなら、無職のままでもいいからそばに残っていて欲しい、結婚して交流が無くなってしまうなら、未婚のまま一緒にいてくれる方がいい。さすがに私はそんな風には思いませんが、そうした考えを持つ人がいても不思議でないことは、親になってみると分かります。

その雰囲気が明示的にまたは黙示的に子どもに伝えられる。子どもは敏感にそれを感じとって、意識的もしくは無意識的に実現しようとする。そしてそれは、学校に行って一生懸命勉強したり、社会に出て職を得たり、新たな人間関係を築いたりすることよりも遥かに「楽」なことであるはず。少なくとも、傷ついたり失望したりという事態を味わわなくてすむ。

日本社会に引きこもりが多いのは、そんな背景があるのではないか。つまり、親の(無意識的な)意向を「孝行な」子どもが汲んでいるところがあるのではないか。

引きこもりの青年が、親に対して暴力を振るうケースがままあるということを仄聞しますが、暴力なんて、ある意味すごく濃密なコミュニケーションだと思うんですよね。臭い青春ドラマであるじゃないですか。「バキッ!この野郎!俺はお前のことを思ってるんだ!目を覚ませ!」「ハッ!俺はなんてダメな奴だったんだ!先生ありがとう!」by 中村雅俊みたいな。おっと、すいません。古臭すぎますね。ともあれ、引きこもりの青年が外に出て、他人に頻繁に暴力を振るうなんて聞いたことがありません。歪んではいるものの、やはり密な空間におけるコミュニケーションではないか。

だいたい、暴力を振るうぐらい親が憎いなら、家を飛び出れば済む話ですよね。でも屁理屈を付けて、絶対に出ない。もちろん、職を見つけたり人間関係を築いたりするのが大変だ、そしてそれに失敗して傷つくのが嫌だということもあるでしょうが、それ以上に「甘やかし甘やかされる」という甘美な関係を何時までも続けたいと親子共々思っている、そちらの方が大きい原因になっているような気がしてなりません。

塾で小学生を見ているとよく分かるんですが、とりわけ男の子は親子関係にウエットなところがあります。「今日はお母さんが風邪をひいていてすごく可哀想だ」「お母さんが仕事で忙しいからぼくも家の用事を手伝ってる」なんて私達にアピールしてくるのは、絶対に男子なんですよね(ちなみに、女の子は割にドライです)(笑)。それは悪いことではありませんし、親からするととても「かわいく」見えることでもあります。

しかし、どこかで区切りを付けねばならないのだろうと思います。ベッタリひっつく時期。節度を持った距離感のある時期。そこを自然に移行できれば、親子関係は素晴らしいものになるんじゃないでしょうか。

「お前、引きこもりになったら勘当な。」
「勘当って何?」
「親子の縁を切ることやで。」
「えええぇ〜」

なんて我が家では話していますが、親子の縁は切っても切れないもの。子どもの健やかな成長を願うのは親として当然ですが、親子関係も健全でありたいなと思っています。まぁ、なるようにしかならないでしょうけれど……。

自戒を込めながら擱筆。