最近、少しずつ万葉集を読んでいます。といっても、「お勉強」をしているわけではなく、風呂場読書のローテーションに加えて気楽に読んでいるだけです。
もちろん、職業柄、万葉集所収の代表的な作品や解説書は読んだことがありますが(どれも面白かった)、万葉集全ての和歌に目を通したことはありません。以前から、一度全編を読んでみたいと思いつつも、そのボリュームから(4500首以上ある)、手つかずになっていました。
ふと全編を読もうと思い立ったのは、2年前のこと。東日本大震災の時です。何か自分達に出来ることはないかと考え、我が家なりに幾ばくかの努力はしました。が、それだけでは何かが足りない気がする。何が足りないのかはよく分かりませんが、明らかに何かが欠けている気だけはするのでした。
その時に、ふと頭をよぎったのが、万葉集を読むことでした。何だか変な話だと思われるかもしれませんが、それが自分のすべきことのように思われたのでした。格好良く言えば、自分の心のどこかが、悼みを、鎮魂を欲していたのかもしれません。
その時手に入れた、中西進氏による講談社文庫版の『万葉集』。結局は日々の忙しさにまぎれ、断片的に読んだあと、本棚の肥やしになっていました。仕事とも関係がある書籍なので、無駄ではないんですが、何となくやり残した仕事があるような気がしたまま2年が経過。
最近、本棚を整理したんですが、このままではいつまで経っても読まないままになりそうな気がして、裁断機にかけることにしました。PDF化(いわゆる自炊)してデータ保存し、現物を風呂場の脱衣場に放り込むとあら不思議、自然と万葉集を手に取るようになってきた……、というのがここ数ヶ月の話です。
万葉集には、「挽歌」という部立(ぶたて=ジャンルのことです)があります。「柩を挽く(ひつぎをひく)」という表現からきた部立名で、人の死を悼み悲しむ歌々が集められています。
昨日はその挽歌の部分をパラパラとめくっていたんですが、何とはなしに感じることがあります。それは「悼み」の度合いが、歌によってかなり異なることです。表現が正確ではないかもしれません。心の底からわき上がってくる喪失感がたたきつけられたかのような歌と、そうでない歌に分かれると言うべきでしょうか。
確証もなく、ただ単に私の読解力不足に起因しているだけなのかもしれませんが、心からの悲痛な叫びと、立場上・職業上の都合で詠まれた歌が混在しているような気がしてなりません。
魂からの叫びというのは、何年経とうが魂に訴えかけるものがあります。不思議ではありますが、何かが訴えかけてくる。どうしようもなく訴えかけてくる。言葉が変わっていようとも、極端に言えば、言葉が通じずとも。
その叫びを受け取ることこそが、文学を初めとする表現全般を味わう歓びなのではなかろうか、その表現が上手いか下手かなんて何の関係も無い、優雅な表現であっても、ごつごつした不器用な表現であっても、どちらでも構わない。至誠は否応なしに伝わる。心に電流が走る……。柄にもなくそんなことを思ってしまいます。
昨日詠んだ歌は、以前ブログで取り上げたことのある歌でした。
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど
見すべき君が在りといはなくに
磯の上に生えている馬酔木を手折って
あなたに見せようと思うけれど
肝心のあなたはもうこの世にいないのですね
神風の伊勢の国にも在らましを
何しか来けむ君もあらなくに
伊勢の国に居続けるべきだったのに
どうしてこんな大和にのこのこと帰ってきてしまったのか
愛するあなたはこの世にいないというのに
大伯皇女(おほくのひめみこ)の悲痛は、全人類が理解できる感情だと思います。