ある自殺に思う

ブログで扱うにはちょっとヘビーすぎる話題かもしれませんが……。

私の母校、大阪府立高津高校の3年生が、出身中学校の校舎内で自殺したとの由。進学面などで悩みがあったとの報道がなされていますが、何とも切ない話です。

我が子を持つ年齢になってみると、自分より先に子が死ぬということが耐え難い、いや耐えようもない事だということが身に染みて分かります。自ら命を絶った高校生に、ご両親の気持ちを少しでも考える余裕があったなら。進学なんてどうとでもなるという楽天的な気持ちがあったなら。

私たち大人からすると、高校生の悩みというのは(言葉は悪いですが)チャチなもののように思えます。そんな悩み、大人になったら笑い話だよ、大人になったらもっと大変な悩みがあるんだよ、と。

しかし、鋭敏な感受性を持った高校生にとって、そんな説得は感覚の鈍麻した大人の戯言にしか聞こえないでしょう。悩みの痛切さは、「悩みの中身」ではなく「当人の鋭敏さ」で決まるものですから。

そんな意味で、人間って生きていく上で、ある程度の「鈍感さ」が必要なんじゃないかと思うことがあります。人と違うことをしていることに気づかない鈍感さ、人に何を言われているかが気にならない鈍感さ、人から疎まれていることに気づかない鈍感さ、などなど。私自身が鈍感なのを自己弁護するわけではありませんが、感情面であまりに鋭敏なのは、生きていく上で大変なのではないか。


かつて、信頼の置ける先生から聞いたことがある話ですが、何でも、日本の大学の中では、京大の学生の自殺率が極めて高いとか。理由は色々考えられますが、学生を完全放置する学風、つまり、学問はしたいヤツが勝手にやれ、何をしようが大学側からは何の指導も注意もしないという空気が、その原因である可能性は高いでしょう。今まで高校なり保護者なりが示してくれたレールが一気に消滅するという事態は、依存心の高い学生には耐え難いのかもしれません。

逆に在学中の自殺率が低い東大は、卒業後の自殺率が京大よりも高いらしい。大げさに言えば、在学中に自我の危機を迎えさせる方が良いのか、卒業後に自我の危機を迎えさせる方が良いのかという問題ですね。

いずれにせよ、社会は自分を中心に回っているわけではありませんから、早晩、自分で自分のレールを敷いてゆかねばならない日がやって来ます。「鈍感でありながら建設的である」というのは難しい境地ですが、育児においても、一つの目標になると考えています。