「極楽」と「地獄」と菊池寛

宗教の話に踏み込むつもりはありませんが、「極楽・天国」「地獄」(または類似の場所)という発想は、洋の東西を問わず、どこにでも見られるものだと思います。

もちろん、「地獄」より「極楽・天国」に行く方が良いに決まっていますが、実際の所、「極楽・天国」ってあまり想像力をかき立てられる場所ではないような気がします。

幼い頃、「地獄図絵」みたいな子供向きの本を持っていました。極悪この上ない面相をした鬼が、惨めな人間をいたぶっていたり、血の池でゴボゴボと音を立てながら、餓鬼が浮き沈みしていたり。子供心にも何とはなしに興味深く、何度も何度も見ていた覚えがあります。牛頭馬頭(ごずめず、身体は人間で頭は牛や馬の形をしている地獄の獄卒)なんかも、恐い感じがするけれど、どこか格好いい。

確か、その書には極楽の絵図も載っていたと思うんですが、不思議とそちらは記憶に残っていないんですよね……。

人間って、実は地獄のような場所の方が、ずっと興味深く感じるんじゃないでしょうか。それが証拠に、昔の寺院に飾ってある地獄絵図って、極楽図よりもずっとインパクトがあって、筆が活き活きしているような気がします。私の持っていた「地獄図絵」も、地獄図の方がはるかにページ数が多く、極楽図のページはほんのわずかしかなかったはず。


このあたりの人間心理のあやを描いて秀逸な作品があります。

菊池寛の『極楽』です。

生前の善行や信心が幸いして極楽に往生した、おかんさん。確かに極楽は素晴らしいところだったけれど、何の変化もない日々が何十年何百年、未来永劫に続きます。こうした状況に人間は耐えられるのか。ある意味、究極の選択を迫られるような面白い作品です。

最後の部分を少し引用してみましょう。ちなみに、宗兵衛は先立って極楽に来ていた夫です。

「地獄は何んな処かしらん。」
 おかんに、そう訊かれた時、宗兵衛の顔にも、華やかな好奇心が咄嗟に動くのが見えた。
「そう? 何んな処だろう。恐ろしいかも知れん。が、茲ほど退屈はしないだろう。」そう云ったまま宗兵衛は、黙ってしまった。おかんも、それ以上は、話をしなかった。が、二人とも心の中では、地獄の有様を各自に、想像して居た。
 又五年経ち十年経った。年が経つに連れて、おかんは極楽の凡てに飽いてしまった。五十年七十年の間、蓮の花片一つ落ちるほどの変化さえなかった。宗兵衛とも余り話をしなかった。凡ての話題は彼等に古くさくなってしまったのである。彼等がまだ見た事のない『地獄』の話をする時だけ、彼等は不思議に緊張した。各自の想像力を、極度に働かせて、血の池や剣の山の有様をいろ/\に話し合った。
 こうして、二人は同じ蓮の台に、未来永劫坐り続けることであろう。彼等が行けなかった『地獄』の話をすることをたゞ一つの退屈紛らしとしながら。

短い作品ですので、興味のある方はぜひ。
菊池寛『極楽』【青空文庫】

しかし、「極楽」と「地獄」の二つしか選択肢がないとすれば、お釈迦様も、なかなか意地悪な方であります(笑)。