人間国宝

歌舞伎俳優の事件、ちょっと気になったので、今回も伝統芸能の話です。

伝えられるところによると、殴打された彼、酒に酔うといつも、「俺は人間国宝なんだぞ!」と威張り散らしていたらしい。ネットの掲示板などを覗いてみると、結構信じ込んでいる人もいる様子。「人間国宝だからって偉そうにするな」「こんなレベルの若造が人間国宝になっていいのか」といった発言を散見しました。

確認しておきますが、彼は人間国宝ではありません。

人間国宝」という名称は実は通称でして、正式な名称は「重要無形文化財保持者」。国が重要無形文化財の保持者として認定した人物のことです。

重要無形文化財は、大きく分けて「芸能」と「工芸技術」の2ジャンルに分かれるんですが、後者の方には疎いので、前者、とりわけ「文楽」を中心にご説明しましょう。

Wikipedia「人間国宝」によると、現在に至るまで文楽で人間国宝に認定された方々は次の通り(Wikipediaより引用、ブログ作成者が見やすい形に整形、☆印は現在もご活躍中の方)。

<大夫>
六世竹本住大夫
十世豊竹若大夫
豊竹山城少掾
八世竹本綱大夫
四世竹本津大夫
四世竹本越路大夫
七世竹本住大夫 ☆
九世竹本綱大夫 ☆

<三味線>
四世鶴澤清六
六世鶴澤寛治
野澤松之輔
二世野澤喜左衛門
十世竹澤彌七
四世野澤錦糸
五世鶴澤燕三
七世鶴澤寛治 ☆
鶴澤清治 ☆

<人形>
二世桐竹紋十郎
二世桐竹勘十郎
吉田玉男
吉田文雀 ☆
吉田簑助 ☆

綺羅星のように輝く男達。芸の道に一生を賭けた、恐ろしいほどの人達だといってもよい。文楽に詳しい方なら、彼らが「文楽の宝」であることを越えて「国の宝」であることに異論を挟むことはないでしょう。

私、一時期、「芸談」を読むのに凝っていたことがありまして、特に戦後の文楽関係の芸談は、ほとんど読破しています(かなりの書籍が絶版になっているので、図書館で取り寄せての読書です)。

その頃、1年間に借りた書籍の代金を定価ベースで計算したことがありますが(細かいな)、芸談だけで100万円程度になっていた覚えがあります。大阪市図書館に感謝。

少し話はそれましたが、彼らの修業は恐るべきものです。ある大夫(浄瑠璃=ストーリーを語る人だと思って下さい)は、師匠に三味線の撥(ばち)で額を殴られ流血し、終生額に傷が残っていたとか、ある人形遣いは毎日舞台下駄で嫌というほど蹴られて芸を覚えていったとか、そういう類の話が芸談本にはごまんと載せられています。

そんな辛い修行に耐えても、文楽の場合、歌舞伎と違って大きな経済的見返りはないと聞きます。至芸の極地を目指すためだけに、日々の修練に打ち込む。そして老境に至って誰もが認めるだけの芸の域に達した人だけが「人間国宝」と認められる。文楽には世襲制度がないので、本当の実力者しか「人間国宝」にはなれないということも付け加えておきましょう。

私の知る限り、いずれの「人間国宝」も極めて謙虚です。芸談を読んでも、インタビューを読んでも、「芸の奥義を究めた」などという思い上がった言葉を聞いたことは一度もありません。むしろ、「芸を極めるために一生努力する所存です」という言葉しか聞かないと言ってもよい。芸の奥深さを思い知り、先達の偉大さを知る人の謙虚な言葉は純粋で美しい。このような方々だからこそ、奥深い芸道に分け入ることができ、私たち見物人を芸で圧倒することができるのだと確信します。


私のように何の芸も持たない人間が言うのはおこがましいことですが、人間国宝と呼ばれる方々のことを考えると、どうしても、今回の事件についてこう言いたくなります。

人間国宝を舐めるんじゃない!