先日息子とカフェに行った時の話。
現在息子は浪人中でして、当然のことながら本人が一番気詰まりな日々を過ごしていると思うんですが、気詰まりなのは私たち保護者も同様です。とっとと大学生になって欲しい(笑)。
まあ、本人はそれなりに気晴らしもしているようですが、たまにはカフェでも連れていってやるかと、とある休日の夜、某カフェへ。
今までに何度か入ったことのあるカフェなんですが、メニューを詳しく見るのはその日が初めて。いつもはメニューも見ずに「アイスコーヒー下さい」ですので。
「あ、このカフェは偉い。うん、とてもいい。」
息子が何が偉いのかと聞いてくるので説明します。
「メニューの品名の下に英語が書かれているやろ。『アイスコーヒー』の下に『iced coffee』って。これ『ice coffee』でも意味は通じるんだけど、やっぱり英語として自然なのは『iced coffee』やんか。コーヒーが勝手に冷えたのではなくて『冷やされている』わけだから。」
「そんなん気になるかな〜」
「うん、正直、味よりもずっと気になるわ」
まあ、ちょっと偏屈なのかもしれない(笑)。
で、その他の品も見ていくと、やっぱり気が利いた表記になっています。
「ミックスジュース」は「mix juice」ではなく、「mixed juice」と表記され、「アメリカンコーヒー」は「American coffee」ではなく、「weak coffee」と記されています。
「ミックスジュース」は「混ぜられた」ジュース、「アメリカンコーヒー」は「薄めの(弱めの)」コーヒー。ちゃんと英語話者の感覚に沿った訳語が選ばれているわけです。
そういう細かいところにまで配慮が行き届いているから、こんな夜遅くなのに多くの人で賑わう店になっているんだよ。一事が万事。見てみ、ホール係の人達の動きも機敏やろ。厨房の方との連携も上手くとれてるし。
って、カフェのオペレーションは塾とあまり関係がないので、言葉の話に戻しましょう。
言葉の感覚って、やっぱり各言語や民族の「モノの見方」を表していると思うんですよね。外国語を学ぶというのは、表層的な利用価値を追うにとどまるものでなく、「モノの見方」や「各民族の肌感覚」のようなものを学ぶことでもある。
ちょっと大げさかもしれませんけれど、古文や漢文を学ぶのも、究極的にはそれが目的だと思っています。日本の昔の人々の「モノの見方」を身に付けるのが古文、中国(東アジア)の昔の人々の「モノの見方」を身に付けるのが漢文。
このあたりはまた詳しく書きたいんですが、外国語の学習を「表層的な利用価値」にのみ求めるのであれば、もう英語の勉強はほぼ不要だと思うんですよね。DeepL などのサービスは現時点でほぼ完璧な訳を提供してくれますし、リアルタイムの会話で日本語←→英語の変換(通訳)をスマホがすることにも、技術的に困難な点はないでしょう。
とすれば、何のために英語を学ぶのか。それはやっぱり究極的には、英米圏の「モノの見方」を身に付けるためだと私は思います。
そういう意味で、「英語」という教科はだんだんと「古文」「漢文」といった科目に立ち位置が似てくるんじゃないかと思っているんですけれど、まあそんな考えはまだ理解されそうにありません。
と、ここで終わるつもりだったんですが、「言葉の感覚」の具体例がないと分かりにくいかもしれませんね。もう少しお付き合いを。
私が高校生だった頃、受験勉強をしていて一番人の手(プロの手)を借りたいと思ったのは、現代文と英作文でした。現代文は自分の記述解答が良いのか悪いのかが分かりにくいですし、英作文はネイティブから見て自然な英語になっているのかどうかが分からないからです。
学校の先生に質問すべきなのかもしれませんが、どの先生方もお忙しいし、(そしてちょっと口幅ったいですが)私の解答や考えを理解してくれそうな先生もいないといった事情から、上記の二分野については、Z会の添削指導を利用していました。とても安心感のある指導を受けられて、今振り返っても良い選択だったと思います。現代文では何度か「空恐ろしいほどの読解力がある」と評価されたのは今でも良い思い出。ええ、良い思い出だけを覚えるトクな性格なのです(笑)。
で、英作文の方の思い出なんですが、長めの和文を英訳する問題で(京大は長い和文英訳の問題が出るのです)、「八本足のタコが云々」といった表現があったんですよね。確か私はあまり深く考えずにその部分を “octopus with eight legs” と書いたんですが、しばらくして返ってきた添削には、 “eight-legged octopus” とせよ、と記されていました。なるほどなるほど、勉強になった。
“octopus with eight legs” も意味が分からないわけではないと思うんですが、「タコが自分の意志で八本の足をまとっている」ような感覚を持たせうる表現なのだろう。タコは自らの意志で八本足になったわけではない。生まれたらたまたま八本足になっていた。もっと言えば「造物主が八本足に作った」のであって、タコからすると「八本足に作られた」。だから受け身的な表現になるんだろうな……。
ここら辺はネイティブ話者に聞いたわけではなく、私の独断なので間違っているかもしれませんが、「造物主」を措定する文化独特の表現だなと思ったのを今でもよく覚えています。
ちなみに「茶色い目の少女」は “brown-eyed girl” と訳されますが、同じ伝でしょうね。ヴァン・モリソンの味わい深いこの曲で覚えておかれたし。
Van Morrison – Brown Eyed Girl (Official Audio)
やっぱり言葉を学ぶことの醍醐味の一つは、新しいモノの見方や感覚を嗅ぎ取るところにあると思います。