英語読解にも日本語の読解力は必須です

前回の記事で「小学生の読解力」について書きましたが、コツコツ身に付けた読解力でないと、英語を学習する際にも使い物にならないという例を一つ出してみようかと思います。

昨今の小学生は、英会話教室のみならず学校でも英語指導を受けることが増えていますが、個人的にはあまり意味のないことだろうと思っています。少なくとも小学校では、英語を指導する時間があったら、その分日本語をしっかり指導しておいてあげる方が、将来の伸びが期待できるんですけどね。

というのも、外国語の力は母語の力を越えることはないからです。母語を通じて培った言葉の力の範囲内でしか外国語は読めないし使えない。これは言語学上・教育学上の通説だと思いますが、なぜか母語の基盤がまだでき上がっていない小学生に英語を教え込もうという社会的な圧力は強い。ちょっとそれって植民地的根性じゃない?と思うんですが、この記事では、その部分にはあまり突っ込まないでおきます。

誤解しないで頂きたいので付言しておきますが、私は英語を初めとする外国語を学ぶことは素晴らしいことだと思いますし、個人的にも大好きです。異なる言語体系に触れることは、人生に鮮やかな彩りを添えることだと確信しているぐらいです。

ただ、それも母語の力あっての話です。母語を介して学ぶ「言葉力」「言語力」の上でしか外国語の力は発展させられない。当たり前ですよね、外国語だって「言葉」「言語」なんですから。ベースになる母語があってこそ新たな言語知識が確実にインストールできるのは、コンピュータで言うOSとアプリの関係によく似ていると思います。

母語の力がまだ固まっていない段階で、外国語の中途半端な教育や、母語と外国語のツギハギ教育を受けることは結構危ういことで、そのような環境下に幼少期から長期間置かれた人が、言語的危機のみならずアイデンティティ・クライシスにまで直面するというのも、それほど珍しいことではないようです(言語教育関連の本を読んでいるとそうした事例がよく説明されている)。


ちょっと話が広がりすぎそうなので、本題に戻しますね。今回の記事でお伝えしたいのは、「日本語の読解力は英語の読解力のベースになる」いや、より正確には、「『日本語の読解力』イコール『英語の読解力』である」という話です。

先日見つけた2023.08.02付けのあるツイート。

 

中央大学の入試問題らしいんですが、こんな英文です。

On the ability of individuals to learn to live in harmony with others depends the future of mankind and the world.

 

Twitter主(今はX主というべきなのか)は、「これを読んですぐに構文が理解できるものなのか」=「すぐに構文を理解できなくてはならないのか」という疑問(慨嘆?)を投げかけています。プロフィールを見るに東大志望の浪人生さんのようで、かなり英語力もあると思われる学生さんです。

これ、私が思うに、日本語の読解力の問題だと思うんですよね。そりゃ英単語などの英語知識も最低限は必要ですが、やっぱり「英語力」の底にある「言語力」が問題になっている。

具体的に見ていきましょう。必要なところは説明を加えますので、英語の力は要りません。ご安心下さい。ただ、前回の小学生の読解力に関する記事でご説明した通り、「一字一句ゆるがせにせず、全力で相手の伝えたいことを汲み取る」ようにしましょう。


まず、一語目に On とありますから、「〜の上に」ということですよね。「『何』の上に」なんだろうな、と思いながら次に読み進める。

すると、the ability (能力) とありますから、「『能力』の上に」なんだと分かる。じゃあ、「『何』の能力の上に」なんだろうな、と思いながら読み進める。

次に来るのは、of individuals (個人の)。なるほど、「『個人』の能力の上に」ということね。じゃあ「どんな能力」なんだろう。

その次の、to learn (学ぶこと) から「個人の『学ぶ』能力の上に」だと分かってきて、じゃあ何を学ぶのかという気持ちになってきます。

続く to live (生きること)という表現から、「個人の『生きることを』学ぶ能力の上に」ということになりますが、「生きることを学ぶ」って変な話ですよね。そもそももう私たちは既に「生きている」わけですし。

で、次の言葉を見ますと、in harmony (調和して)。なるほど、「個人の『調和して』生きることを学ぶ能力の上に」と言いたいんだなと分かってきます。

もちろん「調和」は単独ではできません。何と調和するのかなと思いながら次を見ると、with others (他者と)。「個人の『他者と』調和して生きることを学ぶ能力の上に」という意味の塊が浮かび上がってきます。かなりまとまりのある言葉の塊ですね。

ここで「日本語で」考えてみて欲しいんですが、「〜の上に」という表現が主語になることはまずないですよね。

例えば、「机の上に」と来たら「りんごがある」とか「花瓶を置く」とか「ゲロを吐く」(汚い!)とか、普通は「動詞」を含む表現を期待するはず。

じゃあ、「個人の他者と調和して生きることを学ぶ能力の上に」も同じことです。後に何か動詞が来そうなのは、英語でも同じはず。

で、次を見ると、depends (〜によって決まる・依存する)という自動詞が来ています。ここは英語の知識になりますが、この動詞はほぼいつでも、”on” という前置詞と共に用います。というか、depend on 〜 という形で覚えている受験生がほとんどでしょう。

でも、この文章、depends の後に、”on” という前置詞は来ていません。

あ、そうか、一番最初にあった “On” という前置詞から始まった「個人の他者と調和して生きることを学ぶ能力」という意味の塊は、「〜によって決まる」の中身なんだ、倒置が起きていて、先に “on 〜” 以下の部分が出ていたんだな。

だからここまでで、「個人の他者と調和して生きることを学ぶ能力によって決まる」ということなんだな。

じゃあ、「何が」そうした能力によって決まるのかなと、続きを読んでみると、the future of mankind and the world (人類と世界の未来) とあるので、ふむふむこれが決まるんだな(主語なんだな)と分かります。

読んでいる時のイメージをまとめてみると、こんな感じです。

能力に、個人の、学ぶ、生きることを、調和して、他者と
〜によって決まる
未来、人類と世界の

あとはさっきの理解に基づいて「なめらかな日本語」にすればいいですね。

「人類と世界の未来は、個人が他者と調和して生きることを学ぶ能力によって決まる。」

受験生として、「倒置による強調」が起きていることを分かっているんだぞと採点者にアピールしたければ、

「他者と調和して生きることを学ぶ個人の能力にこそ、人類と世界の未来はかかっている。」

としてもいいでしょうね。

文字にするとめちゃくちゃまどろっこしいですが、読解力のある人なら、おそらくほぼ瞬時に上記のような読み取りをして、日本語に変換しているはず。


上記ツイート、けっこう「バズった」ようで、色々なリプライがありましたが、「悪文だ」「こんな文を論文で書いてはいけない」という評が多いようです。でもそれはやや短絡的な見方じゃないかなと私は思います。

(理系であっても)論文ばかりじゃなくて文学作品も読むべきだし、そもそも世の中には悪文が溢れまくっているわけで、どんな文もそれなりに読めてこそ「読解力」なんじゃないでしょうか。

「伊藤和夫らの構文主義の弊害」といった評もありましたが、この文を読むのに「構文主義」は関係ないと思うんですよね。日本語の感覚も用いて素直に一字一句たどればいいだけで。


くどい記事で申し訳ありませんが、外国語を学ぶ際の母語の読解力の重要性をお分かり頂けたでしょうか。

日本語も外国語も突き詰めれば「言葉」です。言葉の力を鍛えられるならば、日本語でも英語でも構わないと思いますが、日本国内に居て24時間英語のみで暮らすことは(よほどの例外を除けば)難しいですよね。ならば、日々の生活や勉強で日本語をしっかり鍛えて、英語などの外国語学習に備えた方が賢明でしょう。とりわけ幼い小学生なんかは一に日本語、二に日本語。

そうそう、算数と日本語の読解力の関係も書きたいと思っているんですが、あまり期待せずにお待ち下さい(笑)。