家康の影武者・プーチンの影武者

近所の公園にも桜の花がちらほらと。いい季節になってきました。

近所の公園は武将真田幸村ゆかりの土地。というか、この玉造界隈一体が大坂城の一部でしたから、大坂の陣という舞台のど真ん中でございます。

豊臣秀吉の時代には、徳川家康をはじめとする名だたる武将の多くがこの近辺に居を構えましたので、この辺りの子ども(特に歴史好きな子ども)は、どの武将にもそれなりに馴染みを感じるのではないかと思うんですが、その中でも真田幸村は別格です。

というのも、真田幸村・大助父子は冬の陣の際、この地に陣を構え、徳川軍を翻弄し、家康を大いに苦しめたからです。日本の中心たる地位を上方から江戸へと強奪した憎たらしいタヌキジジイというのが、大阪人の代表的な家康評でして、その家康観からすると、彼に煮え湯を飲ませた幸村は最高殊勲武将ということになります。

そんなわけで、町のそこかしこには真田幸村・真田十勇士にまつわる石碑や看板が多くあります。大河ドラマで真田幸村が取り上げられた時は、当塾の裏手にある三光神社(幸村の銅像がある)に、かなりの人々が詰めかけておりました。塾の前の道も歴女と思しき人が大挙して通ってゆかれました。最近少し落ち着いたとは言え、幸村ロード(JR玉造駅から当塾へ向かう細い道)を通って、大坂冬の陣の頃の真田砦跡を訪れる人はまだまだ多いようです。

ちなみに私の母校は「真田山」小学校。校章は「真田六文銭」。真田の兵達のトレードマークです。六文銭は三途の川の渡し賃ですから、「戦=死出の旅路の覚悟」という意味になります。これを見た相手方の兵士達は怖気を震ったと聞きますが、そんなん校章にするかな普通(笑)。校章を決めた人、意味を知らなかったんじゃないかと思います。

とまあ、それほどまでに幸村贔屓な土地柄でして、私自身も真田幸村は大好きな武将なんですが、ただ、大阪人の従来の家康観というか家康嫌いはちょっと幼稚だなと思っています。

政治の実権は江戸にありましたが、江戸期を通じて経済的な首都は大坂だったわけですし、(冷遇されていたとはいえ)天皇という貴族的権威も京都にあり続けました。これはかなり巧妙な統治システムで、その礎を築いた家康(とそのブレーン)はやっぱり優れた人達だったと思うんですよね。並の武将だったら、全部自分のお膝元に置こうと思うはずですから。

豊臣家・大坂方は、そうした発想を持ったり具現化したりする人材がいなかったのが不幸だったんだろうと思います。徳川の方がそういう人材面で充実していたと。


で、思うのが「影武者」のこと。

織田信長や豊臣秀吉の影武者って、もしいたとしても、あまり機能しなかったと思うんですよね。あまりにも信長・秀吉のタレントが傑出していて、統治システム全体が、彼ら個人の才能に依存しすぎていたきらいがあるからです。

その点、徳川家康の影武者は多いに機能したのではないかという気がします。もちろん家康も卓越したタレントを持つ人物だったと思います。しかし、どちらかというと彼の志向は個々の才能よりもシステム運営に重きを置いていたように思われるわけで、リーダーが替わってもそのブレーンが残存していれば大きな問題は生じない。「家康っぽいおっちゃん」がいて、忠実かつ優秀な取り巻きがいれば、練りに練られた統治システムに破綻は生じないというわけです。

実際、徳川幕藩体制は極めて長続きしたわけで、システム構築や運営の難しさを知る大人になってみると、(好き嫌いは別として)家康というのは大した人物であったのだと思わざるを得ません。

こんな事を書いているのは、最近風呂場で読んだ津本陽の『真田忍俠記 上・下』が面白かったからなんです。津本陽の小説に出てくる男達って、とても爽やかで格好のいい奴等ばかりなんですが、それはこの小説も同じ。幸村はもちろん、幸村に仕える猿飛佐助がすこぶる付きの有能かつ忠実な男で、爽快な人間なのです。「強者に屈せず、義に生きた男たちのロマンを熱く描く傑作長編」という解説の通り。

津本陽『真田忍俠記 上・下』

ネタバレになりますが、小説の最後、執念で家康を追いつめた佐助は、ここ玉造で家康の首を刎ねます。家康は首無しの遺体と化し、幸村の悲願が達成される。が、(幸村や佐助も分かっている通り)時既に遅し。恫喝におびえきってひたすらに徳川との和議を求める淀君に、そんな白髪首を持っていても意味はありません。むしろ迷惑がられるだけ。

結果、家康のそっくりさんが「徳川家康」となり、何の問題もなく徳川政権は運営されるというストーリーだったんですが、その筋書きが楽しめるのはやっぱり、上述のような徳川家康の性質によるところも大きいなと思った次第。

最近、ウラジミール・プーチンが以前とは別人になった、つまり、影武者と入れ替わったなんて話がまことしやかに語られますが、個人的にはまずあり得ないなと思います。旧ソビエト・ロシアって、いつの時代も強力な指導者のパーソナリティが統治の要になってきたはずで、言うなれば「信長・秀吉」スタイルだと思うんですよね。そんなところで「影武者」は機能しないんじゃないか。逆にお隣の国の将軍様は、「影武者」が上手く機能するような気がします。まあ、「影武者」にされる人は大変でしょうが……。

当塾も「影武者」がいてくれれば少しは楽できそうなんですが、なかなかよいお方が見つかりませぬのぢゃ(笑)。