「しっかり読む」「精読する」ということ

前回、「読書量と答案作成能力・得点力は必ずしも比例しない」ということを少し書いたんですが、その続きです。

私の指導経験からして、大変な読書量を誇るのに国語の点が全然取れないという人は多くいますし、逆にほとんど読書をしないけれど国語の得点力は高いなんて人もこれまた多くいます。

もちろん、読書(ここでは小説を念頭に置きます)が勉強に良い影響を与えるという意見に反対するつもりはありません。ただ、その影響の度合いはそれほど大きくありません。というか、入試国語という観点からすれば、ほとんど無視できるレベルでしょう。

いや、長い目で見て読書はいいんですよ。視野を広げてくれますし、老後の趣味にもなりますしね。ただ、国語の得点力を上げるという目的に資するかと言えば、迂遠すぎるよと。二階から目薬的ですよと。

国語力(ここでは得点力と言い換えても構いません)を上げるには、やっぱり文章を「しっかり読む」「精読する」しかありません。文章の読みのあやふやさを読書量・問題量でカバーしようとしても無理があります。それは合理的な兵器を持たない軍隊が竹槍戦法に走るのにも似ています。命を危険にさらしているのに戦果が上がらない。

当塾ではそのあたりをしつこく説いて指導しているんですが、「しっかり読む」「精読する」ということが本当に実行できれば、「国語という科目は答えが問題文に書かれているイージーな科目なのに、何をそんなに悩むことがあるのか」という感じになるはずなんですよね。

受験生でも時々そういう人がいます。「国語・現代文って何が難しいのか分からない、全部答えが書いてあるじゃん」みたいな人です。彼・彼女らは本当の意味で「しっかり読む」「精読する」ことができている人達ですね。そういう人は、数学や物理といった理系科目に時間を割いたり、英語や古文漢文に力を注いだりというのが得策。そして、英語や古文漢文の力は国語力・現代文の学力と直結しているので、それらの勉強もかなりスムーズに進むことが確実視されます。

一方、国語の得点力がなかなか伸びない人の場合、「しっかり読めていない」「精読できていない」ということが最大の原因となっているケースが非常に多い(もちろん他の原因も考えられますが)。自分としては「精読できている」と思っていても、記号選択問題の正答率が低いような人は、やっぱり精読ができていません。


本当にしっかり読めているかはなかなか自分では判断しにくいかもしれませんが、「その文章の内容を他人に確実に伝達できるか」という基準で判断するのは一つの手段だと思います。そしてその伝達内容を自由に短くも長くもできるのであれば、確実に精読できているでしょう。簡にして要を得た表現にもできるし、微に入り細を穿った表現にもできるという状況です。

例えば、『桃太郎』。誰でもよく知っている話ですよね。あれだけ何度も聞かされた話、状況としては「精読・理解」できている状況に近いはず。

ほとんどの大人は、昔話の本を引っ張りださずとも、「桃から生まれた男の子が成長して、犬猿雉をお供にして鬼退治をする」と簡潔にまとめて話すこともできるでしょう。また、「むか〜しむか〜し、あるところにお爺さんとお婆さんが住んでおったそうな……」から始まる長い物語にして語ることもできるでしょう。

それこそが「精読・理解」できている状態です。筆者の論拠や物語の根幹がしっかりと納得された上で、頭の中で整理されている状況。こうなれば、アウトプットは自由に伸縮できる。

長らく小学生を指導していると、子供たちの「ちゃんと読めた」というのは、ほとんどが「嘘」だということが分かります(笑)。いや、子供たちを責めているのではありません。本人達は心から「ちゃんと読めた」と思っていて、嘘をついているつもりは皆無ですからね。ただ、そこはそのまま放置しておいてはいけないところです。

なかなか骨の折れる作業ではあるんですが、「ちゃんと読める」ということはどういうことかを、しっかり理解してもらうことから始める必要があります。


今の小中学生がいかに文章・教科書を読めていないかということについては、新井紀子氏の『AIに負けない子どもを育てる』が学術的データを元にしていて大変説得的。本当にいかに小中学生が、というか、人間が文章を読めていないかがよく理解できます。

発刊直後に読んだんですが、私達が現場で感じていることと書かれている内容があまりに一致していたので、驚いたぐらいです。この本の話もまた書かないとと思ってずっと放置しちゃってますが……。

逆に考えれば、「ちゃんと文章を読める」・「精読できる」という力は、子どもにとって(いや大人にも)大きなアドバンテージになるはず。日々そのことを念頭において、生徒さんの指導にあたっている次第です。