自由から逃走しない

夏休みということで、朝から晩まで授業漬けの日々なんですが、それもようやく終わりに近づいてきました。ほっ。授業をするのが嫌なわけではなく、むしろ楽しくやらせてもらっているんですが、仕事以外の時間がなかなか取れないことだけが、この時期のちょっと困ったところ。

思うんですが、仕事「しか」していない人って、結局は仕事の効率も低くしてしまっているんじゃないだろうか。

受験生を指導したり、小学生の勉強を見たりというのが今の私の仕事ですが、授業や授業準備「だけ」をこなす日々を送っていると、どんどん脳が退化してしまいそうな気がします。

もちろん、授業や授業準備は大切ですし、その中でも(少々大げさですが)クリエイティビティを発揮したいと思ってはいます。しかし、何度も同じ内容を取り上げ、同じ話をすることが、仕事の性質上、どうしても必要なんですよね。重要な事柄は受験生の誰にとっても重要ですし、是非身に付けてもらいたいことですから。

そんなわけで、この仕事、どうしても「ルーチンワーク」になってしまう部分があります(どんな仕事も多かれ少なかれそうなんでしょうけれど)。

ただ、それは仕事をしている側の事情に過ぎないのであって、授業を受ける側にはなんの関係もない話です。私の方には、生徒さんに、できるだけフレッシュな感覚で知識やノウハウを獲得してもらうという義務があります。

この義務、仕事外の自由な生活が充実していると、何となく果たしやすい気がするんですよね。読んだことのない本にじっくり取り組んだり、未知の領域を勉強してみたり、バイクで遠出して知らない道を走ってみたり、大音量で好きな音楽を聴いてみたり、うだうだと妻や子とどうでもいい話をしてみたり。そんな時間が一日の中にあると、逆に仕事も充実する不思議。

まあ、高校生時代からやっているようなことを続けているだけで、進歩のない話なんですけれども……。ただ、私の高校の先輩も同じようなことを以前新聞に書いていらっしゃいました。

もう亡くなられましたが、作家をなさっていた藤原伊織さんという先輩です。ご存命中の時のことですので、ずいぶん前のことになりますが、新聞のコラムに「私の青春時代」というようなタイトルで書いていらっしゃった内容を覚えています。

「大学にも行って企業でも働いた。そして企業を退職して作家にもなった。たしかにそれらの場で学んだことも多い。しかし、自分の基礎が作られたのは間違いなく高校時代だ。自由きわまりない高校で得た自由の感覚。その頃に楽しいと思ったことを、私は今に至るまで、繰り返したり追いかけたりしているだけである。」

概要、そのような話だったんですが、(面識はないものの)共感を覚えすぎて大笑いした覚えがあります。


個人的には、自由を乗りこなせないと、仕事もままならない、そして人生も本当に生きたことにはならない、そんな気がしています。

しかし、「自由」というものはコントロールが非常に難しい。意外なほど難しい。大人になってからいきなり「自由」を与えられても、なかなかコントロールできるようにはならない。

昔、エーリッヒ・フロムという学者が『自由からの逃走』という書で、「自由」というのは人間にとって苦痛を感じさせられる状況で、むしろそこから逃れたくなるような状況であると喝破しました。

説得力のある見解ですよね。でも、そこから逃げずに「自由」と対峙する。そして「自由」をコントロールして自在に乗りこなす。藤原伊織先輩はそういう意気込みで生きていらっしゃったんじゃないだろうか。

私の勝手な解釈ですけれども、そんな先輩の生き方には憧れを覚えます。我、蒼蠅なれど驥尾に付して千里を致さんと欲す、といったところでしょうか。