野間の大ケヤキ

少し前、午前中がたまたま空いたので、外出することに。そうだ、久々に野間の大ケヤキを見にいこう。

この大ケヤキ、大阪府豊能郡能勢町の野間にあるんですが、樹齢1000年、日本にあるケヤキの中では4番目に大きいとの由。

由来はこちら(クリックで拡大します)。

詳しいアクセス方法についてはネット上に色々と情報があるでしょうから、そちらに任せましょう。当塾からだと、阪神高速を使わないでも1時間弱ぐらいでしょうか。電車だと(利用したことはありませんが)、2時間ぐらいはかかりそうです。

このケヤキ、当然のことながら、実際に見ると本当に立派な樹木です。ただ、不思議なことに、あんまり圧倒される感じはしないんですよね。何となく優しい感じがします。包容力があるというか。

理由はよくわかりませんが、田園風景に溶け込んでいるところ、木全体のバランス、葉っぱの形状なんかからそう感じるんでしょうか。もしこの木が都会のど真ん中にあれば、その威容が見る人を圧倒するであろうという気もします。いや、そもそも都会だとこれだけの樹齢を寿ぐことはできなかったかな。

よく考えて見るとすごいことですよね、1000年の長きにわたって生きながらえるって。この大ケヤキ、ただ単に佇み続けているだけではないんですよ。毎年、大量の葉を茂らせては散らし、茂らせては散らしを繰り返しています。莫大なエネルギーがこの木の中を循環している。ずっと現役であり続けている。

先日(2017年5月)訪問した際の写真。ちょっとボケていますけれど。

2014年冬に訪れた際の写真。

この木が生まれたのは西暦1000年頃のはずですから、源氏物語の成立や藤原氏の栄華を見てきた(?)わけです。鎌倉時代も戦国時代も江戸時代も全部見てきたよ、外国と戦争を始めて人がいっぱい死んでいくのも見てきたよ、と。

植物と動物では、生物としての戦略が根本的に違います。片や一定の場所から全く動かない、片や生まれてから死ぬまで動きまくる。この大ケヤキを見ていると、どっちの戦略・生き方が幸せなのかなとよく思います。

そこらじゅうをあくせくと動き回って、栄華を謳歌してみたり、殺し合ってみたり、悲しんでみたり。そして、あっという間に死んでいく。なんと落ち着きのない奴らだのう。せわしない存在だのう。こう、全てを受け入れて、ゆっくり構えてはおれんのか。

そんなことを考えること自体が、動物というか人間の浅はかさなんでしょうけどね。あなたも私も、動く戦略をとる存在に生まれてしまった以上、死ぬまで動き続けるしかありません。

この先異常なほどの生命技術的進歩が無ければ、あなたも私も、このケヤキよりもはるかに僅かな時間しか生きられないはず。「言問はぬ木」は、それを悲しむでもなく喜ぶでもなく静かにみつめるだけです。

せわしない動物の中でも、とりわけせわしない人間。そのせわしない人間の中でも、さらにせわしない部類に属する私。ケヤキから見たら、もうほとんど嘲笑の的でしょう。開き直って、動き回ることとしますか。

大ケヤキの下から。自分もケヤキも生きていて、今ここに出会う。不思議。