育つもの

ここしばらく吉川英治の小説を読むことが続いていたんですが、吉川英治は随筆も面白い。苦労の連続だった彼の生い立ちが、文章に味わいを持たせています。

私が強く共感を覚えた文章をご紹介したいと思います。今日から弥生三月なので、それに適したものを。以下、引用部分は吉川英治『折々の記 育つもの』から。

育つものを見るのは気もちがいい。ぼくは、育つものが好きである。

友人達が骨董談に耽けっている中で、舟橋聖一氏ひとりは「ぼくは生きてるものが好きだ」と云ったそうだが、ぼくは骨董も嫌いではないが、より以上に、育つものが好きである。

だから季節的には、五月はもっとも自分の生理に適している。芍薬の新芽が土を割って真っ赤なキバを地表にあらわしたり、孟宗竹の筍が朝な朝な伸びつつあるのを見たりすると、自分の生命にまで影響があるかのようで何か楽しい。

全くその通り。育つものを見るのは「快」なんですよね。私は骨董に全く興味がありませんが、そこにあまり「育ち」を感じないことが理由なんだということに気付かされました。

伝統芸能は大好きですが、それは「古臭く育ちのないもの」でなく、演者が新たな命を吹き込んでいるものだからなんでしょうね。そういえば、能面やら文楽の頭やらって、いくら文化財的に高い評価を受けていても、あまり有り難みを感じません。

郊外に出かけて、田んぼに新たな稲が育ちつつあるのを見るとき、本当に嬉しい気持ちになります。稲や田んぼへの愛情がDNAか何かに書き込まれているのかと思うぐらいに(笑)。逆に稲が刈り取られた後の冬田はこの上もなく寂しいんですよね。

人間のばあいにしてもそうである。「もう育ちはない」と思われる人と対坐していると、堪らない退屈が座間にただよい、こっちも、やりきれないものに鬱してしまう。

育つ人、育ちのない人の差は、あながち年齢には依らないようだ。若い見事な筋肉の持主にでも、五分間で、欠伸をおぼえることもあるし、老いすがれて見えながら、なお対者に、ゆたかな生命のひろがりを覚えさせる客もある。

(中略)

牧野富太郎博士の病床の写真を近刊の何かで見た。あの老齢と清貧な書斎図である。だが、写真ですらも、その人のなお育ちつつある生命が窺われる。

吉川英治が言うように、「育つ」「育たない」は年齢によるものではありません。その差が何によるかははっきりと書かれていませんが、その人の持つ元気といったものによって規定されるんでしょうか。いや、病床にある牧野博士には「育つもの」が認められるとされている。

牧野富太郎は、植物の勉強や研究が楽しくて楽しくて仕方なく、気がついたら学者になってしまっていたというような人物。「植物に生まれるべきだったのにまちがって人間に生まれてしまった」という感じがするぐらいの人。

何かに向かう意志、広い意味での生命力が人に「育ち」をもたらすのかもしれません。

私の仕事は、まさに「育つもの」を見、その手伝いをすること。とてもありがたいことだと思っています。

ただ然し、人間には天寿があった、と知るとき、育つものをなお持つ生命には、たまらない、いじらしさと愛惜がわく。詩を謳って無情を叙べるしか人間には解決の方法がない。

ここは吉川英治らしい、そして日本人の心の琴線に触れる部分だと思います。

どんなに育つものでも、いつかはその終わりを迎えねばならない。仲間が「育ち」を止め世を去るのを見て愛惜を覚えない人はいない。

残されたものが出来ることと云ったら「詩を謳って無情を叙べる」ことしかない。そこにこそ詩の源流が、もっと大きく言えば、魂の叫びのはじまりがあるのだと思います。

塾生さん、自分の息子、私の周りは今まさに「育っている」存在だらけなんですが、自分もまだまだ育ってゆかねばと思っております。頑張ろうっと。

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