昨日、新聞夕刊を読んでいて(夕刊といっても読めるのはたいてい深夜なのですが)、面白い記事に出会いました。
毎日新聞夕刊に掲載されている「水脈」という連載記事です。内田樹、荒川洋治、苅部直の三氏が交替で月に1回執筆しておられるんですが、内田樹氏の回がいつも面白いんです。
内田氏は神戸女学院大学の教授。フランス現代思想が専攻分野とのことですが、現代思想にとどまらず色々な論考を発表しておられます。詳しくは 内田樹 – Wikipedia にて。
余談:
今 Wikipedia を読んでみて、先日私が書いた「地球温暖化と言うけれど」と同じようなことを述べておられるのに気づきました(「地球温暖化で何か問題でも?」)。先日の記事はパクリではないですよ、念のため。氏にますますシンパシーを感じます。
今回の新聞寄稿記事は「公人の最優先事」と題されており、政治家や公務員に要求される資質・姿勢について取り上げておられます。
このブログでは政治的な話は避けているので、ちょっとつまみ食いになってしまうんですが、引用してみます。
(以下、引用部分は、毎日新聞2009.04.08夕刊「水脈」(内田樹担当回)より。)
俚諺に「李下に冠を正さず、瓜田に履を納れず」という言葉がある。「すももの木の下では冠のひもがほどけても直してはならない(すもも泥棒だと思われるから)。瓜の田で履が脱げても取りに入ってはならない(瓜泥棒だと思われるから)」という「公人のたしなみ」についての教訓である。公人とは常住坐臥「推定有罪」の心構えでいなければならない。そうこの諺は教えている。
少し難しい漢字が使われているのでルビを振っておくと、「りかにかんむりをたださず、かでんにくつをいれず」ということになります。今回の記事のタイトルにもしましたが、四字熟語で表すと「李下瓜田(りかかでん)」ですね。引用部分を読んでいただければ分かるとおり、「疑われるようなことをするな」という意味なんですが、世の中の大切な真理をついた諺・四字熟語だと思います。
繰り返し言うが、公人に要求されているのは現に廉潔公正「である」ことではない。そのように「見える」ことである。私は別にシニスムによってそう言っているのではない。私たちの社会にはいたるところに「李下」があり、「瓜田」がある。廉潔公正に「見える」ためには単に善良であるためよりもはるかに多くの知的緊張と節度と想像力を要求するからである。
記事の最終部分なんですが、ここが光っていますよね。
私、大学では法律や政治を学んでいたんですが、そうした勉強(特に訴訟法などの勉強)をして強く思うようになった事を言い当ててくれている気がします。
例えば、Aさんが人の物をこっそり盗んだとします。もちろん真犯人はAさんですが、その現場を見た人は(Aを除き)誰もいないとします。
全てお見通しの神がいればいいんですが、そんな存在がいない以上、裁判の場では神ならぬ身の人間達が、あれこれと議論したり証拠を持ち出したりしてAさんの有罪・無罪を判定しようとするわけです。
このとき、「正しいかどうか=物を盗んでいないかどうか」は問題になりません。というか、(本人を除き)誰も見た者がいない以上、判定のしようがない。となれば、問題にすべきは「正しく見えるかどうか=物を盗んでいないように見えるかどうか」という点しかありません。
まぁ、新聞記事の方では「公人」を念頭に置いておられるので、ちょっと論点はずれているんですが、「清廉潔白であること」よりも「清廉潔白に見えること」の方が大切、という点では変わりはありません。
そして、「清廉潔白であること」はそれほど難しいことではないと思うんですよね。真面目に生活していさえすればそれでよいわけです。しかし、「清廉潔白に見せること」は結構難しいことであるように思います。真面目に生活していても、ぼんやりしていると、「ズルをしている」ように見えてしまうケースはたくさんあるからです。
そうした意味合いで、内田氏は、「単に善良であるためよりもはるかに多くの知的緊張と節度と想像力を要求する」とおっしゃっているのでしょう。
分かりにくい話になってしまったかもしれません。
世の中では「正しい」ことよりも「正しく見える」ことの方が大切だし、そのように振る舞うのはかなり難しいことなのだ、とまとめておきましょうか。もちろん、私もシニシズム(冷笑主義)から言っているのではありません。