「金は時なり」

お盆休みを頂いております。今が好機と、あれこれとやらねばならない事をこなしているんですが、やっぱりいつもの如く時間が足りない。正確には、やらねばならない事・やりたい事が多すぎるんでしょうね。どこかで妥協しないと。

さて、「時は金なり」という諺がありますが、これ、私には違和感たっぷりの諺です。

この諺の背後には、「金こそが最も貴重なもの」という価値判断があると思うんですよね。「金」という最も貴重なものを比喩の対象に挙げれば(いわゆる隠喩ですね)、「時」というものの貴重性がはっきり伝わるだろう、という考えです。

でも、諺の背後にあるその価値判断自体がおかしいと思うんですよね、私は。

考えてもみて下さい。人生はどんなに長くったって百年前後。先端医療技術で少しは伸ばすこともできるかもしれないけれど、極めて短い時間しか私達には与えられていません。あなたが何歳かは存じ上げませんが、この記事を読んで下さっているということは、一定以上の年齢でいらっしゃるはず。となれば、余命は長くて数十年。いや、不慮の死が訪れることもありえます。となれば、余命数年、場合によっては数ヶ月かもしれない。

「金」は何とかなります。健康なら頑張って稼げばいい。どうしても稼げなかったら、借りることもできる、行政に頼ることもできる。最悪、人の所有する金を奪うこともできる(いや、絶対にしないですけどね)。

でも「時」は稼ぐことも、借りることも、奪うこともできません。自分に与えられた一生という時間は、故意に短くすることは可能であっても、伸ばすことはできない。

であってみれば、「金」の貴重性なんて、「時」の貴重性とは比べものになりません。

実際、亡くなる間際の大富豪に「全財産と寿命10年を交換してあげてもいいけど、どうする?」と問えば、ほとんどの大富豪がこの取引に乗ると思うんですよね。私が神(悪魔?)なら、そんな取引を持ちかけて、世界中の困窮している人たちに金銀財宝をばらまきたいんですが(笑)。


私も、幼い頃からそう思ってきたわけではありません。うすうす頭で感じていた「時」というものの貴重性。それが身体的な感覚で胸に迫るようになってきたのは、三十代の頃でしょうか。私は三十代で父を失うととともに、子を持ちましたが、そのことが大きく影響していることは間違いないと思います。

そんなわけで、個人的には「時は金なり」という諺を使うことはもうありません。強いて言うなら「金は時なり」でしょうかね。