親の行動が不合格をもたらしうるという話 – レアリア(言語外知識)の重要性

まあ、それはそうだなと思う話。随分前に見かけたツイートから。

親が大学受験生の我が子に携帯電話の所持を禁じていた。で、その子が京大を受験した際に、「camera phone」に関する英作文が出題されたが、スマートフォンを持ったことのない彼は問題の趣旨が理解できず、不合格の憂き目を見た。

これ、本当にそこらじゅうである話なんですよ。大学受験だけではなく、中学受験の段階でも同様です。学校と塾と家しか知らない純粋培養っ子って、やっぱり著しくひ弱なんです。

当たり前ですが、人間は不可避的に社会的動物です。社会の中で生き、社会のことを知るために学び、社会のために働き、社会に助けられて生きてゆく。これは宿命です。無人島に逃避でもしない限り、誰もこの宿命からは逃れられない。

そうだとすれば、小学生・中学生・高校生の暮らしや勉強にだって社会性が必要なはず。社会から遊離した「勉強」なんて、勉強とは言えないのではないか。過激な情報を子どもに与えて良いとまでは申しませんが、雑多で猥雑な社会の現実も子どもには伝えていくべきだと思っています。高尚な教養はその先に成り立つものなんじゃないでしょうかね。

特に言語関係の勉強なんて、「レアリア(言語外知識)」なしには成り立ちません。外国語の読解はもちろんですが、母国語の読解もまた然り。

文法は完璧、単語も沢山知っている、でも文章の意味するところがよくわからない。そういった場合、上記「レアリア(言語外知識)」の欠如が原因となっていることが多いように思います。小学生の生徒さんなんかを見ていると、それをよく感じるんですよね(まだ年端も行かない少年少女ですから無理からぬところではありますが)。

そうした「言語外の知識」は、一朝一夕には身に付きません。いろんな所でいろんな物を見て、いろんな物を読み、いろんな話を聞き、いろんな人と付き合うしかありません。そうあってこそ「社会的動物」になれるわけですから。

突拍子もない例かもしれませんが、地球人とは全く異なる文化を持った遠い星の宇宙人がいるとします。そして彼らの使っている言葉の文法や単語も全て理解できるとします。しかし彼らのものす文章・話す言葉が十全に理解できるかと言えば、やはりなかなか難しいと思うんですよね。彼ら宇宙人の生活や行動原理を知らないと、本当に言わんとする事を掴むことはできないでしょう。

それと同じことが国語の読解にも言えるんですが、なぜか多くの模試問題をこなせば何とかなると思う人が多いように思います。無闇に問題数をこなしても全く効果は上がりません。やっぱり、「レアリア(言語外知識)」をコツコツと蓄積し、それと並行して文章の正しい読み方を身に付けないと。

入学する生徒を選ぶ学校側にしても、同様の考えを持っているだろうと私は思います。難関校の入試問題には、「勉強以外を禁じられてきた純粋培養的な生徒=知的にひ弱な生徒」に来られても困るというメッセージがありありと浮かんでいることがあるんですよね。

算数という科目では上記のような能力を測ることがなかなか難しい分、国語という科目が「純粋培養的少年少女」をふるい落とす「篩(ふるい)」の役目を果たしているのでしょう。灘中の詩の問題なんかは、そのあたりを上手く突いているように思います。個人的には、そういう問題を良問だと考えています。

上記の理由から、小学生・中学生・高校生には色々なものに触れて欲しいと考える次第。あせらずコツコツと。急がば回れ。Festīnā lentē. (悠々として急げ。)

<参考>
『僕の先輩はあらゆるものを制限され、勉強だけ集中するように強いられた』…皮肉なことに、勉強だけに集中させようとした親の行動が不合格をもたらした – Togetter [トゥギャッター] https://togetter.com/li/2132026