犬は偉いよ

どうでもいい話なんですが。

先日、公園で犬と飼い主がじゃれあっているのを見かけました。犬は本当に嬉しそうで嬉しそうで、見ているこちらまでが楽しくなってくるような顔をしています。久々の散歩なのかな、心から遊びを満喫しているなあ。

今ある喜びをそのまま全身で受け止める。今の喜びを、今とことんまで味わう。そうした様子を見ていて、私には何かが羨ましく感じられました。

何なんだろう、この名状しがたい羨ましい気持ちは。

自らの生存を飼い主という絶対的な他者に委ねる気楽さ?世間を渡ってゆく苦労を知らぬ呑気さ?それもあるかもしれないけれど、何となく違うんだよな……。

はっきりとした答えが出ず、何となくもやもやした気持ちです。で、しばらくしてふと気づいた答え。犬特有の、何も複雑なことを考えず、今の喜びを純粋な喜びとして享受する姿勢。ああ、その姿勢そのものが私には羨ましく感ぜられるのか。

何か喜びや幸せが訪れると(嬉しいのはもちろん嬉しいんですが)、その喜びや幸せが自分のもとを去って行く時のことを考えてしまう、そして、その幸せを何とかして逃すまいと汲々としてしまう、または、欲深くさらなる喜びを得ようと躍起になってしまう。私だけではなく人間全体の業のようなものかもしれません。

人間ってだめですよね、いや、私がダメなのか(笑)。

いずれにせよ、目の前にある喜びをそのまま純粋に味わえる犬や赤ちゃんは偉大だなと思います。大人になってもこういう心的姿勢を持っている人は、「悟りを開いている」と称して良いと思うんですが、そんな人はまず見当たりません。

司馬遼太郎がこんな趣旨のことを書いていらっしゃいます。

「悟りを開くなんて言うのは、数億人に一人の宗教的な天才にしか出来ないことであって、我ら凡人の及ぶところではない。それにもかかわらず悟りを開いていると称する人間が多いのは、世渡り上(商売上)の必要からに過ぎない。」

私も悟りを開けそうにはありませんので(そしてそう称する商売上の必要もありませんので)、なあなあで我慢するしかなさそうです。