小学生の国語力は個人間で100倍ぐらいの差があるのではないか

仕事として、日々小学生に色々な教科の指導をしております。学力は人それぞれですので、一人一人の学力に応じた指導を提供するように努めておりますが、個々人で一番差があるのは「国語力」ではないかと思っています。

例えば、100点満点の国語テストがあったとします。A君の得点は80点、B君の得点は40点だったとしましょう。単純に計算して、「A君の国語力はB君の国語力の2倍ある」ということになりそうな気もします。

しかし実際の差はもっと大きいんですよね。私のイメージからすると、A君とB君の間には20倍、50倍、いや100倍ぐらいの差があってもおかしくない気がします(あくまで「イメージ」ですけれど)。


より具体的に説明してみましょう。文章の問題提起部分に傍線が引かれていると考えてください。「XはどうしてYするのだろうか」というような表現ですね。「ミツバチはどうしてこのような動きをするのだろうか」とか「織田信長はどうしてこの戦いに勝てたのだろうか」といった部分です。

そして、傍線に関してこのような問題が設定されているとしましょう(実際によくあるパターンの問題です)。「傍線部分に関して筆者はどのように考えているか。筆者の考えが一番よく表れている一文を30字以内で抜き出しなさい。

何も難しい問題ではありません。国語力の高い小学生(大人もそうですが)は素直に筆者の話に耳を傾けます。「ふ〜ん、ミツバチって変わった動きをするんだな。どうしてこのような動きをするのかな。」

そうした心構えで素直にストーリーを辿ってゆくと、筆者は色々な説明を加えてくれます。こんな風に仮説を立ててみた→それから実験をしてみた→するとこんな結果が出た→したがって、こういうことが言える。

「なるほど、ミツバチの変わった動きって、蜜の在り処を仲間に伝えるための動きなんだな。へぇ〜。」と、文章を読んでいる段階で納得している。腑に落ちている。

そんな人にとって、先述の問題はアホみたいに簡単です。

「ミツバチの変わった動きは『蜜の在り処を仲間に伝えるための動きだ』って言ってたな。結論として最後の段落に書いてあったな。ほとんど同じことが二度書かれているけど、45文字ぐらいありそうなこの一文はダメだな。短い方のこの一文だろうな。一応数えてみよっと。え〜っと29文字。間違いなく正解はこの文だな。」

そんな感じで正解。発見までの所要時間、約5秒といったところでしょうか。

喩えていうなら、文章を一本の線として追いながら、頭の中に二次元的な(平面的な)マップができ上がっている感じですね。「地図を見て『病院』がどこにあるか指差せ」と言われても別に難しくとも何ともないですよね。先述の抜き出し問題はこれとほとんど同じレベルに感じられる。掌を指すが如し。何が難しいのか分からない。


逆に国語力の低い小学生の場合はこんな感じ。文章を一通り読んでいても、文字の羅列ぐらいにしか感じ取れておらず、前後の脈絡がつかめていない。頭の中に二次元的な(平面的な)マップを作ることはおろか、一本の線すらたどりきれず、あやふやな点線というかぐんにゃり曲がった曲線ぐらいしか頭には残っていない。

こうした状態を前提におくと、先述の「筆者の考えが一番よく表れている一文を30字以内で抜き出しなさい」という問題は「極めて難しい問題」ということになります。もう一度文章の先頭からエッチラオッチラ読んでいかざるを得ない。

文字数だけが頼りなので、何度も何度も文字数をカウントし直す。この文は31文字、ダメだな、次の文は33文字、これもダメか、次の文は……。下手をすると10分近くそんな作業を繰り返す。あげくの果てに、全くお門違いな部分を答えとして書く。

もうお分かりいただけると思いますが、時間で単純計算すると120倍。しかも素早く見つけられた小学生は正解、長く時間を掛けた小学生は不正解。この問題が配点5点だとすれば、点数的に見える二人の差はたったの5点ですが、その内実はまったく異なっていることがご理解頂けるかと。


そんなわけで、「小学生の国語力は個人間で100倍ぐらいの差がある」というのは、日々現場に立っている者からすると、嘘偽りのない感想なんですよね。

国語力の高い生徒さんには更なる高みを目指してもらい、まだ国語力の低い生徒さんには次のステップに進んでもらう。そんな思いで、各生徒さん一人一人の答案をチェックしては、書き直したりアドバイスしたりする毎日です。今年もいろいろな生徒さんに出会えることを楽しみにしております。