心が呼び名に表れる

大きなプロジェクト、というと大げさですが、かなり時間のかかるプロジェクトを昨日ようやく完成させました。ふぅ。そろそろ別の仕事の方にも力を入れないとなりません。仕事はいくらでも湧いて出てきます。

さて、大変な騒ぎになっている日大・関学アメフト問題。一週間前にも書いた話ですが、少し付け足し。

恥ずかしい指導 – アメリカンフットボール暴行事件を見て

その後、案の定な経過をたどりまして、日大のアメフト部監督は入院。いつも思うんですが、病院って現代の「アジール」ですよね。

「アジール」って現代文によく出てくるキーワードなので、ちょっと説明しておくと、

聖域を意味する語。そこに逃げ込んだ者は保護され,世俗的な権力も侵すことができない聖なる地域,避難所をいう。古くはユダヤ教の祭壇,ギリシアやローマの神殿,日本の神社や寺院の領域が,これに当たる。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より引用

ということです。大学受験生は覚えておいて下さいね。

政治家や芸能人が世論による糾弾を受けた時、とりあえず逃げ込む場所として病院が機能しているわけですが、本当に「治療」を必要とする人を妨害しない限りは、そうした「聖域」の存在も許されるべきなのかもしれません。マスコミや世論に地獄の果てまで追いかけられるとあっては、さすがに可哀相すぎるわけで。

個人的には、そうした避難をしなくてよいような生活を心がけております(笑)。


で、塾ブログらしい話題に振ります。私が気になったのは、日大監督の言語感覚。

暴行を加えた日大のアメフト選手の会見は立派だったと思います。もちろん、前回も書いたように、成人なんですから自分の行い(暴行)に関する責めは受けねばなりません。その点は許されるべきではない。

ただ、まだ二十歳そこそこの学生が、顔を出して謝罪インタビューに応じるということ、しかもそれがマスコミを介して日本国中に見られているということが、どれほど大変なことかは、大人として想像してあげるべきだと思うんですよね。

会見を全部を見る時間はありませんでしたが、釈明文は全て読みました。もちろん、弁護士などのプロが手助けをしていることとは思いますが、筋の通った正直な文章で好感の持てるものです。

日大の彼はスポーツマンシップを貶めたけれど、自分でしっかりとそのスポーツマンシップを回復した。私にはそう思えます。

だからこそ、彼を取り巻く大人たちの醜さが余計にクローズアップされてしまっているんですよね。危機管理に詳しいわけではありませんが、明らかな下策にさらなる下策を塗り重ねていく日本大学当局・日大アメフト部は、ちょっとブレーンを考えたほうがいいんじゃないか。

日大監督が世論に押される格好で、初めて公的な場で謝罪した際、関西学院大学のことを「『かんさい』学院大学」と何度も称したことは、その最たるものだったと思います。言うまでもありませんが、関西学院大学は「『かんせい』学院大学」です。


京大と関西学院大学はスポーツ交流がさかんでして、「京大対関学戦」が重要な試合として設定されているクラブ・サークルが結構な数にのぼります。少なくともアメフト部はそうですし、私の所属していたクラブもそうでした(ちなみに京大では「京関戦」関学では「関京戦」と呼ばれます。阪神巨人戦・巨人阪神戦みたいな関係ですね)。

そのなかで知りあった関学の人たちって、なんとなく洗練されていて温厚な性格の人が多いイメージがありました。もちろんそれは、私が知る限りのことでありますけれど。

私は根っからの関西人ですから、「『かんせい』学院大学」という呼称を知っていますが、関東出身の先輩や同期が、たまに「『かんさい』学院大学」と間違う。もちろん悪気はないんですが、やはり関学の人たちにすると気分はよくないですよね。「先輩、『かんせい』です」と修正するのは関西人たる私の役目。

大学名ってアイデンティティの一部をなす重要なものですよね。それを間違うことは避けねばなりません。相手に対して非常に失礼な振る舞いになってしまいます。特に関学の人たちと話していると、「『かんさい』学院大学」と呼称を間違われることを嫌う人が多いイメージがあります。もっともな話です。

それを、日大アメフト部の監督、よりによって謝罪会見の場で「『かんさい』学院大学」と連呼する。怒りの火に油を注ぐどころか、ガソリンを撒いている、強力爆薬TNTをぶち込んでいる。関学関係者、怒髪天を衝いても構わないと思います。

考えてみると、日大からすると、関西学院大学って何年にもわたって宿敵として対峙してきた相手ですよね。しかも近年はその後塵を拝し続けたライバルの中のライバルです。監督の頭の中には常にその存在があったはず。その名前を間違うって一体何なん……。

思うに、ライバルを単に「物」だとしか見ていなかったんでしょうね。一人一人の集まりではなく、単なる「物」。生きた存在ではなく、自分たちの行く手を阻む単なる「障害物」。

だからこそ、日大の選手に無慈悲な命令を下し、平気で関学の未来ある学生を「潰せ」と言えたんだろうと思います。これは関学選手への侮辱であることはもちろん、日大選手への侮辱でもあるでしょう。言い換えれば、日大部員も単なる「物」として扱われている。

「かんい」「かんい」平仮名一文字の話ではありますが、そんなところにも人の心理は表れるものですね。