梅雨明けの思い出 – 父の最期

梅雨も明けて夏本番。塾としては忙しい時期ですが、やっぱり夏はいいなあ。私、暑さに著しく強い熱帯仕様の身体をしておりますので、我が季節到来といったところです(そのかわり冬にとても弱い)。

この時期になると思い出すシーンがあります。

父と母と私の三人で肩を寄せ合って、ぽろぽろと涙を流し続けた夏の駐車場。


もう17年も前のこと。私の父が身体の不調を訴えはじめたのは、年明けの頃でした。

本当に息災な人でしたが、私と同じく寒さに強くなかったので、ちょっと悪い風邪でもひいたんじゃないかな程度に軽く考えていました。父自身はもちろん、私たち家族もです。

「今まで忙しすぎたんだよ、きっと。さすがに50代も後半となれば、体調を崩すこともあるよ。いい機会だからゆっくり身体を休めたら?」ということで、父はしばらく仕事を休み、家でゆっくり過ごしておりました。

ところが、この体調不良は思いのほか長引き、かかりつけの医師からも、一度詳しく検査してもらったほうがよいとのアドバイスを受けるに至りました。病院嫌いの父を私や母が説得して、近隣にある大病院へと一緒に出かけた日のことを今でも覚えています。

そこで下された診断は、私たちにとってかなり衝撃的なものでした。脳下垂体に腫瘍ができており、それが視神経を圧迫している。このまま放置すると目が見えなくなるから、早めに手術を受けるべきだ。担当してくださった医師は、淡々とした口調でそうおっしゃいました。

話を聞いた私たちが固まっているのを見て、医師は「いやいや、ありふれた症例なんですよ。開頭手術もおそらく必要ありません。鼻孔から行う手術方法で行けるでしょう。すぐに日常生活に戻れますよ」とも言ってくださいましたが、私たちは大きな衝撃を受け、ただただ頷くことしかできませんでした。

それから、父の入院生活が始まりました。私も母もいられる時間はすべて病院に詰め、父と生活を共にしました。といっても、同じ天王寺区内の大病院ですので、それほど大変ではありません。

父も私も暗い話は嫌いです。「わし、手術なんてサッサと終えて復帰するわ」「そうやそうや、すぐ元に戻るよ」「今年はみんなで泳ぎに行かれへんかな?」「どうやろね、梅雨明けごろにはもうぴんぴんしてるんと違う?」「ははははは!楽しみやな!」

そんな風に、病室でも普段と変わらず、いつも笑いあっていた気がします。今考えてみるとそれは、襲ってくる不安を少しでも払いのけようとする振る舞いだったのかもしれません。


その後、腫瘍が大きくなっていることが判明し、手術は大事を取って開頭手術にしたいと医師から告げられましたが、その時も父は気丈でした。「何、どうってことないよ。すぐに仕事に復帰できるやろ。」

そして手術の日。嫁いだ妹、義弟、甥っ子を初めとして、父の姉妹など、親族一同が早朝から励ましに来てくれました。もちろん、その頃は婚約者だった私の妻も。

いまだによく分かりませんが、本人が大きな手術を受けている間の家族って、何をすればいいんでしょうね。本人のために何かができるわけでもありません。かといって寝ている気にもなれず、帰宅する気にもなれず、本を読む気にもなれず、テレビを見る気にもなれない。

私も母も、手術室にできるだけ近いソファに座って、何時間もじっとしているしかありませんでした。

7時間ぐらいが経過したでしょうか、手術終了予定時刻を大きく過ぎて、寝台車に乗せられた父と、執刀医の方々が手術室を出てきました。昏睡状態の父と、難しい顔をした医師の先生方。胸騒ぎが抑えられない私と母に、「大事なお話がありますので、あちらの部屋にお入りください」と担当の先生は告げました。


「親族の方々には、大変厳しい話を申し上げなくてはなりません。今回摘出した脳の腫瘍は肺癌が転移したものであることが判明しました。つまり原発性肺癌が先にあり、そちらから、脳にまで癌が広がってきているということです。」

青天の霹靂、胸が一気にぐいっと締めつけられるような思い。傍らで意識を失いかけて倒れそうになっている母を支えながら、続きを聞きます。

「したがって、今からは厳しい戦いが待っています。癌との戦いです。そして予後は極めて厳しいものである可能性が高いこともお伝えしておきたいと思います。」

「先生、それは父の余命があまり残されていないという風に理解してよろしいでしょうか?仮にそうだとして、どれぐらいの期間が残されているんでしょうか?」

「いや、その期間をはっきり申し上げることはできません。ただ、難しい状況であることには違いありません。今後は当病院の呼吸器系のスタッフが治療に当たりたいと思います。」

その日、ICUに入った父との面会は許されず、私はどうやって自宅に帰宅したのかよく覚えていません。


その後、父の入院は長引きました。放射線治療や抗癌剤治療。辛そうな顔をしながらも、父は私たちには辛いということを一言も漏らしませんでした。子を持つ身になった今、少し父の気持ちが理解できるような気がするとともに、尊敬の念を抱きます。

呼吸器系の先生方も力を尽くしてくださいました。この病気のことをどのように父に話すべきか、平均的な余命については伝えるべきなのか。相談に乗ってくださった主治医のK先生には今も感謝しています。

大変な治療が一巡し、初めて帰宅が許されたのが、ちょうど今ごろの季節。梅雨明けの頃です。

今となってはよく思い出せないんですが、帰宅するその日は、近隣の駅まで歩いて行って、駅近くのカフェでお昼をとってからタクシーで帰ろうということになっていたんだろうと思います。

退院したばかりで、しかも大きな病を抱えているんですから、素直に病院からタクシーで自宅に向かうか、私に自動車で迎えに来ることを命じればいい話なんです。そうはせずに、駅まで歩くことになったのは、おそらく父のたっての希望ではなかったかと思います。

長らく歩いていなかったから、一刻も早く元の身体に戻したい。そして仕事に復帰したい。駅までの600メートルぐらいどうということはない。さっさと歩いてみせるぞ。父のそんな気持ちにおされ、私や母も反論できなかったんでしょうか。

よく晴れた日でした。午前中とはいえ、気温は30度近く。路面からの照り返しが強く、じっとしているだけでも汗が流れるような天気でした。

空調のよく効いた病院から出た父と母と私は、真夏の街を駅に向かってゆっくりゆっくり歩を進めました。母が父と腕を組み、私も父と腕を組んで。

駅までもう少しというところでした。

「すまん、ちょっと座っていいか?」

「いいよいいよ。暑いし休みながらゆっくり行こうよ。」

しかし、腰掛けるようなところがなかなかありません。辺りを見回すと駐車場のところにコンクリートの出っ張りがあります。

「お父さん、あそこでいいかな?あのコンクリの出っ張りのとこ。ちょっと休憩したら、カフェに向かおうよ。そっちのほうがずっと涼しいし。もう少しだよ。」

ゆっくりと父を座らせ、母と私が横に立ちます。

ふと見ると、駐車場の路面に涙の粒が落ちてゆきます。うつむいた父の眼から。

「……すまんな。ほんまにすまんな、こんな体になって。迷惑かけてすまんな。ちゃんと元に戻すからな。すまんな。ほんまにすまんな……。」

「何言うてんの!迷惑なんて少しも思てないよ!こんな時に僕やお母さんに頼らんかったらいつ頼るんな!今は何にも考えんと身体のことだけ考えてよ!それが僕らにとっては一番ありがたいねんから!なぁ、お母さんもそうやんな!」

うなずく母。涙で声にならない声を必死に上げて、私も母も父の腕にしがみつきました。夏の駐車場に吸い込まれてゆく三人の涙。


その後しばらく、父は通院しながら自宅で過ごしたものの、再入院を余儀なくされ、秋の訪れとともに世を去りました。

父が死去してからは、その駐車場の前を通ることが辛くて、いつも通らないようにしていました。お恥ずかしい話ですが、普通に前を通れるようになるまで数年掛かったんですよね。

本当にプライベートな話で塾ブログには全く適していないような気もするんですが、世の中には同じような気持ちをお持ちの方がいらっしゃるかもしれません。そうした方とこの気持ちを共有できればと考え、記事にしてみた次第です。

ちなみに、父が再入院している最中の八月、私と妻は結婚式を行ったんですが、父にも(医師の許可をもらって)参列してもらうことができました。親不孝な息子ですが、義父や義母のおかげもあって、結婚式を見せられたことだけは、悔いを残さずにすみました。

私たちの息子も見てくれていたらなあ、夫婦で塾をちゃんと運営しているのも見て欲しかったんだけどなあ、というのは贅沢に過ぎるでしょうか。それらの報告は、「あちら」で父と再会する時まで、楽しみとして置いておこうと思います。