いじらしくて堪らない

時々いますよね。「人間が大好きだ」という人。私はそういう人を信頼しないことにしています。

いや、それはダメだろうと言われそうですが(笑)、やっぱりおかしいと思うんですよね。

そりゃ、いい人は私も好きなんですよ。性格のいい人、愛嬌のある人、美しい人、快活な人。そんな人が好きなのは当たり前ですよね。

ただ、残念なことに世の中はそんな人ばかりではありません。性格のねじ曲がった人、愛想の欠片もない人、とにかくマウンティングを取ろうとする人、他人のあり方にことごとく否定的な態度を見せる人。そんな人はごまんといます(自分のことはとりあえず棚に上げといてっと……)。

そもそも「いい人」であっても、相性の問題なのか、どうもしっくり来ない人もいます。残念な人よりも、こちらのタイプの人の方が多いかもしれません。

前述の「人間が大好きだ」とのたまう御仁は、こういう「嫌な人」や「どうもソリの合わない人」も大好きだというわけですよね。本当にそうならば、それは大いに尊敬に値すると思います。ほとんど菩薩や仏様の域に達している。

「いやいや、さすがにそんな人たちは好きじゃないよ」と言うのなら、それは「自分の好きな人間が大好きだ」と言っているに過ぎず、何の意味もないトートロジーですよね。もっと意地悪く言うなら、「人間が好きだ」という自分に酔っているナルシシストに過ぎない。

そして、もし「人間が大好きだ」という言葉が戦略的に繰り出されているのであれば、それはもう偽善者だと断言してもいいと思うんですよね。

少なくとも、私が今までの人生で見聞きしてきた範囲では、「人間が大好きだ」と言いながら、本当にその言葉を貫徹できそうな人は一人もいませんでした。例えば、自分の家族が誰かに殺害されるとします。それでも「人間が大好きだ」という人は、その犯人のことを「大好き」でいないといけないわけです。そんな人、どう考えても異常ですよね。ま、極論ですが(笑)。


とまあ、高校生ぐらいからそうしたことを考えていたんですが、この年齢になってくると、考えが若干違ったニュアンスを帯びてきました。

もちろん「どんな人間でも大好きだ」なんて気持ちになったわけではありません。邪悪な人、人の気持ちを踏みにじる人なんかは、むしろ子どもの頃よりも嫌いになっているかも。そして、何よりも嫌いなのが「権力を笠に着て偉そうにする人間」。相手にそうした姿勢が見えると、闘い開始のゴングが頭の中で鳴り響きます。うん、てんで人間ができてませんね(笑)。

ただ、何というのでしょう。表現しにくいんですが、なんとなく人間全体に「いじらしさ」「けなげさ」を感じるようになってきたと申しましょうか。

人間って必ず死にますよね。死なない人はいません。どんなに偉い人も、どんなに美人も、どんなにお金を持っている人も。病気や老いに打ち勝った人も一人もいません。全戦全敗。敗北率100パーセント。

そうであるなら、人間って本来、もっと厭世的になってもおかしくないと思うんですよね。「どんなに頑張ったって、どうせ死んじゃうんだよ、馬鹿らしい。」「どうやったって最後は死ぬのさ、つまらない。」

でも、そんな風に考える人は決して多くはありません。いくら長くても100年そこそこの期間の中で、誰もが自分の人生を謳歌したい・意義あるものにしたいと願い、もがき続ける。

仮に、悪事を働くことによってのみ人生の充実を感じられる人がいたとします。もちろん、そうした人は社会から排除されるべきであって、この世に安住の地が与えられるべきだとは思いません。でも、与えられた人生をできるだけ活用しようとしているという点においては、やっぱり「いじらしい」気がします。所詮は死ぬべき運命の下にある存在が、何かを叫び、何かを追求している。

であってみれば、自分の人生を愛する人のために捧げたり、社会を少しでも良くするために働いている人々がいじらしくないはずがありません。自分に何が出来るわけでもないけれど、そうした人達を見ると、心の中で「頑張れ!」と応援してしまう。

そして、未来を信じて一生懸命に頑張っている人、自分を高めようと努力する人々。この年齢になってそういう人たちを見ると、本当に心からいじらしく、けなげに映るんですよね。「好き」というのとはまた少し違う感覚ですけれど。

私の仕事は、とりわけ「いじらしくけなげな人たち」を相手に働く仕事。そういう意味で、有り難い仕事をさせてもらっているなと思っています。


さてさて、今月いっぱいで当塾も開塾から17年が経過。10月からは18年目に突入です。まだまだ未熟者ですが、これからも頑張っていきたいと思います。