勉強と自由と

いきなり大上段な話で何なんですが、人生って楽しまないとダメですよね。個人的には、人生を楽しまないということは、人生への冒瀆、ひいては自分だけではなく他者も含めた人間全体への冒瀆であると思っています。

私は小学生時代、好き嫌いが非常に多く、給食の時間、先生からよく叱責を受けました。「アフリカの貧しい子ども達は食べる物がなくて死んでいくんだぞ、どうしてお前は食べ物を粗末にして残すんだ」式のお説教です。

正論かもしれませんが、それならこんな給食制度を廃止して、それで浮いたお金や食料をアフリカに送る方がよほど人道的なのではないか。日本の小学生が一食抜いて、貧しいアフリカの子どもの命が救われるなら、そっちの方がよっぽど道徳的に正しいのではないか。

そもそも食べ物を粗末にしようなんて少しも思ってはいない。むしろ私が嫌いな食材を、大好物にしている友人が食べる方が、食べ物は有効活用されていると言えるのではないか。

そんなことを思いながらも、実際に口に出すとさらに先生の怒りを買うのは明白なので、黙っておりましたが……。

で、このスタイルの議論、なぜか「自由を謳歌する」という論点に転用されることはほとんどありません。

「この広い世界には、国民の自由が蹂躙されている国家もあれば、人権が完全に無視されている地域もある。自由が保障されているこの国で、どうしてお前はその自由を粗末にして過ごしているんだ。もっと自由に生きろ。」

こっちの方がよほど説得力があるように思うんですよね。だって、食料やお金と違って、自由を他者の国に送り届けることは物理的に不可能なんですから。

ブラック企業・社畜という流行語が示すような収奪されるだけの人生、人の目を気にするだけの付和雷同的人生。そんな人生は駄目なんだよ、そんな人生を許容することは、あなたを生んでくれた親やあなた自身への冒瀆なんだよ。

小学校の先生方はそうしたメッセージを、子ども達にもっと伝えてもよいのかもしれません。そして、その上でこう伝えてはどうでしょう。

人生の自由はどこかから降ってくるものじゃない。日本国憲法にもあるように、不断の努力がないと維持できないんだよ。そのためにこそ勉強という手段があるんだよ。賢くならないと自由をどう使えばいいかわからないし、自由であるかどうかも判断できない。馬鹿なままだと、悪い人に簡単に自由を奪われてしまう。最悪の場合、自由という鋭い剣で自分を突き殺してしまうことすらあるんだよ。

だからこそ、だからこそ、勉強は必要なんだよと。

勉強を「不自由」だと思う子どもには、勉強こそが「自由への道」なんだと分かって欲しい。個人的には、強くそう思っています。