東京大学入試国語解説 (2022年度・現代文第4問・設問3) – 国語と音楽と2

時間ができたので、前回の続き、過日実施された東大入試の現代文問題(第四問)の設問3の解説を書いてみましょう。問題文全体や設問2の解説は下記をどうぞ。

東京大学入試国語解説 (2022年度・現代文第4問・設問2) – 音楽と国語と1

第3問
「かれらが示した反応は〈これは素晴らしい新資源だ〉ということだった」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

まず問題を解く前提として、筆者武満徹の「聴く」ことへの思いを確かめておきましょう。

第7段落

「『聴く』ということは(もちろん)だいじなことには違いないのだが、私たちはともすると記憶や知識の範囲でその行為を意味づけようとしがちなのではないか。ほんとうは、聴くということはそうしたことを超える行為であるはずである。それは音の内に在るということで音そのものと化すことなのだろう。」

これは私も常々思うことなんです。以前も書いたことがありますが、私、一時は音楽評論家になりたいと思っていた時期があります。そんな人間はどうしても頭でっかちに知識で音楽を「聴いて」しまいがちになるのはご理解いただけるかと思います。最新の曲を聴くと「ふむふむ、フィリーソウルっぽい曲作りか」「おっと70年代シティポップ風の方向性だ」なんてついつい思ってしまう。

でもそれは音楽本来の楽しみ方ではないでしょう。武満徹の言うように、私も「記憶や知識の範囲」で音楽を聴きたいのではありません。音楽を先入観でカテゴライズしたって「聴いた」ことにはなりません。「音の内に在る」「音そのものと化す」そんな無心・純粋な音楽の聴き方が理想であるという主張には、心から同意します。

さて、問題の関係する第8段落に話を進めましょう。段落全文を引用します。

フランスの音楽家たちはエキゾチックなガムランの響きに夢中だった。かれらの感受性にとってそれは途方もない未知の領域から響くものであった。そして驚きのあとにかれらが示した反応は〈これは素晴らしい新資源だ〉ということだった。私は現地のインドネシアの人々とも、またフランスの音楽家たちとも異なる反応を示す自分を見出していた。私の生活は、バリ島の人々のごとくには、その音楽と分ちがたく一致することはないだろう。かといってフランスの音楽家のようには、その異質の音源を自分たちの音楽表現の論理へ組みこむことにも熱中しえないだろう。

先に申し上げておきますが、このブログ記事、「時間のない受験生のために最短距離で解答を求める」みたいなことはしません。寄り道しまくりますので、悪しからずご了承の程を。個人的には、そういう「寄り道」経験の多い人を難関大学は求めていると思っているんですけどね。

まずガムランとはどんな音楽か、これも試験中に具体的なイメージが湧いた人は強かったと思うんですよね。下記のような演奏が、武満徹が聴いたものに近いと思われます。

バリのガムラン音楽!一度は聞いてみて!!

音階といい、音色といい、インドネシア文化外の人にとって異国情緒溢れる音楽だということがご理解いただけるかと思います。

アジア音楽が研究者以外の一般人に幅広く聴かれるようになったのは、そんなに古い話ではないと思いますが、特に最近は、カジュアルにアジアンポップスやロックに触れる西洋の人々が増えてきたように思います。これ、YouTubeが絶大な役割を果たしていると思うんですよね。

この辺はまた機会があれば書きたいと思いますが、私の好きな日本のアーティストの映像の多くには、かなりの割合で多数の英語コメントが入ります。それも純粋に「国内アーティスト」と思われてきた人達にです。山下達郎や竹内まりやといった方々がその代表例ですが、その意味でYouTubeは従来のMTVの数百倍の価値があると思っています。普遍的な魅力を持っているアーティストなら、人種国籍関係なし。かつてのMTVはマイケル・ジャクソンのプロモーションビデオを流さなかったんですよね。ただ単に彼が黒人だという理由で。そう意味では良い時代になったと思います。

おっと、東大入試の問題解説に戻りましょう。

本文第8段落にあるとおり、フランスの音楽家たちにとってガムランはエキゾチックな未知の領域の音楽でした。そして彼らはこの音楽を、「素晴らしい『新資源』だ」と捉えます。

ここに傍線が引かれて東大入試の問題とされているわけですが、さあ、出題者の意図は奈辺にありや。読者の皆さんにもお考えいただきたいと思います。

私がよく小学生にも言っている、「(良い問題の)傍線部の表現に無駄はない」ということも併せてお考えいただければ幸いです。


ちょっと突然に思えるかも知れませんが、ここで「エスノセントリズム」の話を。大辞林にはこう定義されています。

エスノセントリズム(ethnocentrism)
自己の属する集団のもつ価値観を中心にして,異なった人々の集団の行動や価値観を評価しようとする見方や態度。自民族中心主義。

自文化・自民族を中心にするものの見方というのは、もう少しハッキリ言えば、自文化を優等文化とし、他文化を劣等文化とするものの見方です。西洋文化が東洋文化を劣ったものと見なす、日本本土の文化がアイヌ文化を劣等視する、古くは漢民族が「東夷、西戎、南蛮、北狄」という風に周辺民族を蔑視する、などがその例です。

これは中学入試にもよく取り上げられるテーマでして、某中学の入試では、住民が「チョモランマ」と呼んでいる山をイギリス人が「発見」して「エベレスト」(インド測量局長官の名前です)と名付けた話が取り上げられていました。もちろん、それはダメなことなんだよと小学生に伝える意図があるのでしょう。

令和に生きる私たち大人は、エスノセントリズムが不道徳で馬鹿げたことだと知っています。すべての文化は対等であり、その間に優劣はない。

ここで問題に戻ります。フランス人音楽家達は、ガムラン音楽を「新資源」と捉えています。もうお分かりですね。そこには他文化を対等に見るまなざしや、敬意というものが決定的に欠落しています。

「資源」は当然のことながら、「産業の原材料として用いられる物資」という意味です。石油や石炭という資源を用いて何らかの製品が作られるわけですが、私たちが大切に使うのは「製品」の方です。「資源」はあくまでもその材料にすぎず、意識されることもない。むしろ、資源は掘り出して収奪することが当たり前。「石炭ちゃんに悪いから掘り出さずにここに眠っててもらおう」なんて考える人はいないはず。せっかくあるもの使わにゃ損損、掘り出せ掘り出せ、ってなもんですね。

つまり、フランス人音楽家達は、自らの西洋音楽を貴しとなし、インドネシアの音楽文化を対等視することなく、ガムラン音楽を収奪の対象「新資源」としてのみ見ている、というのがここでの問題意識です。

武満徹は言います。「私は現地のインドネシアの人々とも、またフランスの音楽家たちとも異なる反応を示す自分を見出していた。」

もちろん、日本人である武満徹にとって、ガムラン音楽は「血肉化された文化・音楽」ではありえません。ガムランがそうなり得るのはインドネシアの人々だけです。曰く「私の生活は、バリ島の人々のごとくには、その音楽と分ちがたく一致することはないだろう。」

といって、フランス人音楽家達のように、インドネシアの音楽文化を対等視せず、自文化の「資源」と捉えることにも反感を覚える。曰く「フランスの音楽家のようには、その異質の音源を自分たちの音楽表現の論理へ組みこむことにも熱中しえないだろう。」

ここには、フランス音楽家の(おそらくは本人達も気づいてすらいない)鼻持ちならないエスノセントリズムへの批判が込められていると解釈すべきだと私は思います。

本記事冒頭にて説明した、武満徹の「聴く」ということへの姿勢も思い出してみましょう。「(筆者注:聴くということは)音の内に在るということで音そのものと化すことなのだろう。」

こうした姿勢の人が、無神経に他文化から「素材」を収奪することを良しとするはずがありませんよね。


ここでもう少しネットを使って調べてみると、こんな論文の抄録がありました。著者の原塁氏は京都大学大学院人間・環境学研究科で研究されている方のようです。

武満徹の創作における転換期の作品としての《フォー・アウェイ》 ――響きの構成方法と作曲背景から―― https://www.jstage.jst.go.jp/article/ongakugaku/64/2/64_127/_article/-char/ja/

以下、上記論文抄録より引用。

第3節では,《フォー・アウェイ》が作曲された当時の時代状況と,武満がバリ島旅行について記したエッセイを検討した。武満は,《フォー・アウェイ》を作曲する直前にバリ島を訪れており,そこで聴いたバリ島の伝統音楽であるガムランから大きな影響を受けた。武満はガムランに,音階に基づく即興演奏の美しさを見出した。また,彼は,「自己」と「他者」との関係の上に立ち現れる音楽の在り方に感銘を受けた。武満は,この経験を通して,「音階」と「関係」とのあいだに概念上の相同性を見出した。《フォー・アウェイ》において武満はオクタトニック・スケールを用いることで異なる文化のあいだの相互関係を音楽的に表現していると考えられ,それゆえ,この音階は,同曲において特権的な位置にあることを示した。

難しい表現ですが、武満徹がガムランに「美しさ」や「音楽の在り方」という点で感銘を受け、影響されて《フォー・アウェイ》という曲を作曲したことが分かります。やはりそこには、ガムラン音楽を自らの音楽の「資源」とする姿勢はありません。あくまでも対等の音楽として見るまなざしがあるばかりです。

ということで、そろそろ解答例を示してみましょう。

フランスの音楽家たちは、ガムランを西洋音楽と対等の音楽文化としては捉えず、あくまでも自らの音楽表現を補強する素材としてしか捉えなかったということ。

個人的には、「新資源」という語に、筆者武満の批判精神を読み取るべきだと思うんですよね。仮にも東大の入試問題、しかも文系だけに課される問題ですから、そのあたりまでは要求されていてもおかしくはないはず。

前記事と同じく、いくつかの予備校の模範解答を見ましたが、私にはあまりピンと来ませんでした。某予備校の模範解答例。

ガムランの響きにはフランスの音楽に存在したことのない未知の可能性が潜んでおり、それを用いて新たな音楽創造が可能になるということ。

どんな解答が正しいのかの判断は読者のみなさんに委ねます。受験生のお役に立てば幸いです。

最後になりましたが、上記『フォー・アウェイ』を。私もあまり武満徹には詳しくないので、初めて聴いて勉強になりました。ガムランの影響はここらへんかな、なんて考えながら聴くと楽しいかもしれません。

Toru Takemitsu: For Away 武満徹:フォー・アウェイ