東京大学入試国語解説 (2022年度・現代文第4問・設問2) – 国語と音楽と1

時々このブログでお伝えしている「文学・国語と音楽は切っても切り離せないものだ」という考え、かなり偏った考えだとお笑いになる方も多いとは思うんですよね。

ただ、私としては結構真剣にそう考えておりまして、音楽への造詣の浅い人って、文学や日本語に関するセンスが鈍いんじゃないかと思うこともあります。ちょっと暴言ですね(笑)。

そもそも日本文学は詩歌からスタートしているわけですが、万葉集などを考えれば分かるように、日本古来の詩歌は文字通り「歌」です。和歌は机に向かって黙読するものではなかったはず。めでたきを寿ぐため、愛を伝えるため、哀傷を叫ぶため、人々は和歌に節をつけて朗々と詠んでいました。もっと言えば、古来メッセージには何らかのメロディーやリズムが随伴していて、人々の心を震わせてきた。

だったら、音楽が文学と深い関係を結んでいる、いや、音楽と文学は同義だと言ってもいいんじゃないか。

いやいや、それは文学的な文章にのみ妥当することであって、論理的な文章には妥当しないのではないかという反論もありそうですね。ただ、その論にもやっぱり私は反論したいんですよね。碩学の書いた優れた論文や啓蒙書って、どこかに音楽が聞こえることが多い。どこそこと明示できるわけではないんですが、何かそう感じさせるものがある。リズムというか、躍動感というか。個人的にはそういう時、「詩情を感じる」と評価するようにしているんですが、これは最高の褒め言葉だと思っています。


百歩譲ってお前の言うことが正しいとしても、その考えは大学受験に何か役立つとでもいうのか、馬鹿らしい。そんな人のために、数日前に実施された、東京大学入試の国語問題を紹介しましょう。

具体的には東京大学2022年前期入試の問題、第四問なんですが、問題は下記の通り。

筆者は武満徹。ご存知の方も多いと思いますが、日本を代表する現代音楽家です。そして、この出題文章には、他の音楽家や演奏者達、ガムラン音楽が取り上げられています。もちろん、彼らの音楽を知らなくても問題を解けるようにはなっています。でも、後述の通り、取り上げられている音楽家や音楽を具体的にイメージできたなら、解答作成がかなり容易になったんじゃないかと思います。

平たく言えば、東大は単なる勉強マシンのような学生ではなく、音楽的な教養も備えた学生を求めているということでしょうか。言いすぎかもしれないけれど(笑)。

興味をお持ちの方のために、いくつかの問題にもう少し深入りしてみましょう。前準備として、形式段落第1段〜第9段までナンバリングしてみて下さいね。模範解答の是非の判断は皆さんにお任せしますが、問題の捉え方・考え方の一例を示してみたいと思います。

第2問
「周囲の空気にかれはただちょっとした振動をあたえたにすぎない」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。

ここで示される「かれ」とは、ジョン・ケージのことです。おそらくケージは最も著名な現代音楽家の一人でしょう。いわゆる「現代音楽」は少しハードルの高い音楽で、私も何時も聴いているジャンルとは言えません。ただ、音楽好きなら一度は「聴いた」ことのある非常に有名な作品があります。題して『4分33秒』。

Wikipediaの解説が良くまとまっているので引用します。

やがて、それまでの西洋音楽の価値観をくつがえす偶然性の音楽を創始し、演奏者が通常の意味での演奏行為を行わない『4分33秒』(1952)などを生み出した。

ケージの作品で最も有名なもののひとつである『4分33秒』は、曲の演奏時間である4分33秒の間、演奏者が全く楽器を弾かず最後まで沈黙を通すものである。それはコンサート会場が一種の権力となっている現状に対しての異議申し立てであると同時に、観客自身が発する音、ホールの内外から聞こえる音などに聴衆の意識を向けさせる意図があったが、単なるふざけた振る舞いとみなす者、逆に画期的な音楽と評する者のあいだに論争を巻き起こした。この時期には、芸術運動のフルクサスとも関わりをもっている。

Wikipedia「ジョン・ケージ」より引用

フルクサスのとあるメンバーの孫がベック。ベックの作品はやっぱり “Odelay” が一番好きな人が多いかも……って脱線するのはやめておきましょうね。

高校生の頃、『4分33秒』のことを知って、これなら自分にも「演奏」できる!と思ったことをよく覚えています。私、楽器がからきしダメなのがちょっとコンプレックスなんですよね(笑)。

その一方で、アイデア一発の「音楽」だと少し反感を覚えたことも事実。一回は世に通じるけれど、ケージ以降の人が『2分14秒』とか『7分29秒』とか言っても全く無意味ですからね。ちょっとデュシャンの『泉』なんかに似た感覚。

そんな知識を確認したうえで、出題文章を眺めてみましょう。

筆者である武満徹はハワイのキラウエア火山の火口をロッジから眺める。太陽が沈み闇が立ちこめると、巨大なクレーターの底で地の火が輝き始める。筆者や周囲の人々はそれをぼんやりと眺め続ける。そこに作曲家のジョン・ケージが現れて、微笑しながら nonsense! と言う。そして日本語で歌うように バカラシイとも言う。

そんな流れで出てくるのが、傍線部イ「周囲の空気にかれはただちょっとした振動をあたえたにすぎない」という表現です。

まずケージの言わんとする事を出題文を元に考えてみましょう。

「誰の仕業であろうか、この地表を穿ちあけられた巨大な火口は、私たちの空想や思考の一切を拒むもののようであった。それはどのような形容をも排けてしまう絶対の力をもっていた。(第4段落)」

つまり巨大な自然は、完全に人間の営みの外にあるものであり、人間の範疇内にはないわけですね。それを「気むずかしい表情(第6段落)」で見つめて何になるというのか?

そんな気持ちをケージは「nonsense!」「 バカラシイ」と評したのだと思われます。

ただ、そのケージの評は、作者を含めた人々に共感をもって受け止められます。

「そこに居合せた人々はたぶんごく素直な気持でその言葉(筆者注:ケージの言葉)を受容れていたように思う。(第6段落)」

「だが私を含めて人々はケージの言葉をかならずしも否定的な意味で受けとめたのではなかった。(第6段落)」

つまり、このクレーターを見つめる人々の間には、既に「人間の営みの外にある巨大な自然を真剣に捉えようとしても無意味だ」という共通認識(言うなれば「空気」)ができあがっていたわけです。

だからこそ、ケージの言葉は皆の共通認識(空気)に衝撃を与える類いのものではなかったわけです。「空気に……ちょっとした振動をあたえたにすぎない」という表現はそう理解すべきでしょう。

ということで、解答例。現時点では東大が解答を発表しているわけではないので、あくまでも私の個人的見解であることをお断りしておきます。

人間の営みの外にある巨大な自然を真剣に捉えようとしても無意味だというその場の共通認識に、ケージの発言はほぼ同調していたということ。

もう少し掘り下げてみましょうか。第1段落に次のような表現があります。「(宇宙的時間に比べれば)私がすることなどはたかが知れたことであり」

この表現なんかも「巨大な自然>>>>人間の営み」という筆者の意識を感じさせますよね。

あと、先述のケージの『4分33秒』のことも考え合わせてみましょう。ケージは人間の作為を廃して、あるがままの4分33秒間の音を作品として提示したわけです。ご存知の通り、クラシック音楽は極度のトレーニングを積んだ人だけがプロの演奏者となる世界ですが、その連続線上にある現代音楽において「人間の作為を廃する=偶然・自然のあるがままを受け止める」というテーゼを示したわけです。

このケージに関する知識があれば、彼の「nonsense!」「 バカラシイ」という言葉の意味が分かりやすくなると言っても決して過言ではないでしょう。

いくつかの予備校の模範解答を見ましたが、私にはあまりピンと来ませんでした。某予備校の模範解答例。

ケージは人の意識を遥かに超えた巨大な自然とそれに対峙する人間という、その場の圧倒的な状況を言葉でわずかに表現しただけだということ。

どんな解答が正しいのかの判断は読者のみなさんに委ねます。

第3問
「かれらが示した反応は〈これは素晴らしい新資源だ〉ということだった」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

この問題についてもガムラン音楽から書きたいことがありますが、眠いのでもう寝ます(笑)。気が向いたらもう一つ記事を書くかもしれません。


ということで、後日書いた記事はこちら。

東京大学入試国語解説 (2022年度・現代文第4問・設問3) – 音楽と国語と2