社会ゆえに。社会ゆえに。

もうそろそろ書いてもいいかなと思うので書きます。

新型コロナウイルス感染防止の観点から緊急事態宣言が出され、外出自粛が要請されたのは記憶に新しいところです。というか、大阪府では今なお外出自粛要請継続中なんですけどね。

政府が緊急事態宣言を発令してから、今日で40日強。私たち大阪府民は感染症蔓延防止に結構協力的で、繁華街の人出は激減、三密を回避する行動パターンも身に付いてきました。


緊急事態宣言が発令された頃、私と副代表で話していたのは、「人間の持つ社会性」についてです。

人間は社会の中でしか生きられない。人間という存在は絶対に他者との交流なくして生存することは不可能である。物理的にも、心理的にも、経済的にも。そういう風に発展して生存してきたのだから、良い悪いの話ではなくて、所与の条件として考えざるを得ない。空気がなければ人間が生きられないのと同じようなもの。

そして、社会が生存のための絶対的必要条件であるということは、ほとんど本能に近いレベルで、人間にプログラムされているんじゃないか。

だとすれば、(個別的な例外はあるにせよ)集団として人間全体を見た時、必ず社会の安全を維持し存続を図る方向に動く。だから、自粛要請は結構守られるはず。特に過度に同調圧力を高めがちな日本国民であれば、なおのこと。

実際、同調圧力から比較的自由であると思われる大阪の地(この地が昔から強力なガバナンスを持たなかったことに由来する)ですら、上記のように外出自粛要請にかなり協力的だったわけです。

ただ、その一方で、社会が人間の生存に絶対的に必要不可欠のものであるということは、社会の中でしか人間は生きられないということでもある。

とすれば、いつまでも外出を自粛しているわけにはゆかず、私達人間はいずれまた直接の交流を基本とする社会生活に戻ってゆかねばならないのもまた自明。


私が知りたかったのは、「その潮流の変化がいつ生じるのか」ということなんです。この部分は理屈や科学的データでは分かりません。実際に蓋を開けてみるしかない。

この点、検査数や感染率・感染者数といった客観的なデータによって、緊急事態宣言や自粛要請が解除されるのであって、その考えはおかしいと思われる方もいらっしゃるかもしれません。

でも私はそうではないと思うんですよね。コミュニティ構成員の大多数が「もう社会生活に戻らねば」というコンセンサスを形成した時に、そう人間集団が動くだけであって、感染に関する客観的なデータはあくまでその一基準にすぎない。

もう少し強く言うなら、「そろそろ元の社会生活に戻るべきだ」というコンセンサスが一旦形成されれば、感染率が高かろうが、感染者数が増加していようが、あまり関係がない。

社会活動再開のモメンタムが高まれば、(もちろん好ましいことではありませんが)何らかの屁理屈をつくり上げたり、基準値を上げ下げしたり、客観的データ自体を隠蔽したりしてでも、社会はドライブされるだろう。


と、まあそんな話を副代表としておりまして、塾の運営や生徒さん達の学校再開、家族の健康や息子の勉強進行などと大きな関係があることでもあり、早くその「潮流変化」の具体的な時期を知りたいなと考えておりました。

今こそがその時期だとまでは断言しかねますが、その時期が近づいてきているのは間違いないでしょう。

人間は社会ゆえに賢明になり、社会ゆえに愚かにもなる。人間は社会ゆえに生きもし、社会ゆえに死にもする。腹を立てても泣いても仕方がない。人間ってそういう生き物なのだと理解して生きていくしかない。ちょっとシニカル過ぎる見方かもしれませんが……。