年末年始に数冊本を読みましたが、とりわけ面白かったのは、山田ルイ53世の『ヒキコモリ漂流記』。漫才コンビ「髭男爵」の髭の方が、山田ルイ53世氏です(って分かりにくい表現ですね)。
壮絶な引きこもり生活を回顧する自伝なので、本来暗い話のはずなんですが、そこは芸人さん。とにかく文章が面白いんです。というより、山田ルイ53世氏は頭の良い人なので、誰もが楽しめる文章が書けると言った方がいいかもしれません。
またこの本の話は別記事にするとします。
あと、渥美由喜『長いものに巻かれるな!苦労を楽しみに変える働き方』も読みました。働くことに対するモチベーションの高い人だなと感心。
長いものに巻かれるな! 苦労を楽しみに変える働き方
渥美由喜
自身が発達障害のボーダーライン上(といっても決して愚昧な人ではありません、東大も出てらっしゃいます)、息子が難病、父親は要介護状態、仕事も超多忙……という方なんですが、こういう環境に置かれたら、多くの人がめげてしまう、人によっては鬱病にかかってしまうと思うんですよね。もちろん筆者ご自身にも葛藤はあっただろうと思うんですが、そこを柔軟に考えて、嬉々として状況に対応していらっしゃいます。
私は、知的な人の持つ明朗性というか楽天主義的な性質が大好きです。山田ルイ53世氏と渥美由喜氏は全然違うルートを辿ってこられたわけですが、知的な明朗性とでも言うべき点が共通しています。だから読んでいて楽しいんだと思います。
この二人の著書を読んで思い出したのは、モハメド・オマル・アブディン氏の『わが盲想』。盲目の大学生がスーダンの地を離れ日本に留学して立派な学者になるんですが、読んでいてとにかくわくわくさせられるんです。アブディンさんにも「知的な明朗性」を強く感じるんですよね。
この本、あまりに私が面白い面白いと連呼するので、妻も母も読みました。アブディンさんはスーダンについて聞かれると、「日本よりスーダン広い国です」と答えるそうなんですが、笑ってくれる人と、真剣に受け取る人がいるそうで。真剣に受け取る人はちょっと鈍すぎるんじゃ……?
この本の話もまたいつか。
あ、そういえば唐木順三『中世の文学』も読みましたが、ちょっと期待外れだったかな。得るものがなかったわけじゃないんですが、どうも主観的に中世文学を捉えすぎじゃないかと。偉そうにすみません。いずれゆっくりと研究してみたいと夢想しているジャンルなのです。
昨日到着した本は、森見登美彦『有頂天家族/二代目の帰朝』。この本、一作目も読みましたが、とても面白かったんですよね。モリミー、本当に素晴らしいストーリーテラーです。彼の作品は、どれもひたすらに京都(特に京大近辺)が舞台になっているので、私には手に取るように場面が目に浮かびます。四条の東華菜館の上を天狗がふわ〜っと飛んでいったりね(笑)。
この作品もきっと楽しいに相違ないんですが、帯を読んでびっくり。TVアニメ化されたですと?累計30万部突破ですと?TVを見ないので知りませんでした。付録の森見新聞には、コミック版とかDVD全7巻とか書いてあります。なんかすごい人気者になっていたんだ……。
「待ちに待った毛玉物語、再び。愛おしさと切なさで落涙必至の感動巨編。」と記されているように、毛玉にまみれた狸達が主人公。ゆっくり読もう。
帯には「阿呆の道よりほかに、我を生かす道なし。」ともあるんですが、モリミーは「あほ」という言葉の使い方がすごく上手いと思うんですよね。
前作のページを繰るのは面倒なので、不鮮明な記憶で書いてしまいますが、「あほの子やから、ほっといたり。」といった表現に思わずにやりとした記憶があります。
関西弁を操る人なら分かっていただけるかもしれませんが、「あほな子」と「あほの子」とは、ニュアンスにおいてかなりの差があります。
「あほな子」の場合は、その「あほさ」が解消する可能性があります。つまり今という時期が過ぎれば「あほ」でなくなる可能性がある。勉強して賢くなったり、迷いから目が覚めてしっかりしたりという可能性が残されている。
一方、「あほの子」の場合、そうした可能性はほとんどない。生来的に「あほ」なのであって、どんなに頑張っても「あほ」からは脱出し得ない。死ぬまで「あほ」でいつづけるしかない。
あくまでも私の感覚で説明しているので、反論は大いにあり得ますが……。
上記のように考えると、「あほの子やから、ほっといたり。」という表現は、そう表現される相手にとって極めて手厳しいものということになります。憐憫の情を垂れられているわけです。
もちろん、「あほ」という表現には軽い愛情も含まれていますから(ここが関西弁のおもしろいところ)、どこか救いもある表現なんですけどね。
……と、ぐだぐだ書いている場合じゃなかった。早く寝て明日の仕事に備えなければ(笑)。