呪いについて

生徒の漢字の書き取りを指導していた際、こんな問題がありました。

問題 : 結婚式に「しゅくでん」を打つ。

生徒解答 :「呪電

それはだめだあぁぁぁ!「のろいの電報」じゃないですか!「おまえらなんてワカレロ、ワカレロ、ワカレロ〜」みたいな。

生徒には「祝電」という正しい漢字を教えるとともに、「電報」がどんなものかも伝えておきました。今時、電報なんて見たことのある小学生の方が少ないでしょうしね。


さて、今回私が書きたいと思ったのは「呪い」の話です。といってもオカルト的な話をしたいわけではありません。極めて現実的な呪いの話。

個人的な見解ですが、現代社会って「呪い」に満ち満ちていると思うんですよね。

例えば、「有名になりたいという願望」とか、「人から承認されたい願望」といった望みはとても分かりやすい「呪い」だと思います。そりゃ、有名になって周囲の人々からちやほやされるのは、一見楽しいことであるように思えます。しかし、それが朝から晩まで、毎日毎日死ぬまで永遠に続くとなればどうでしょうか。

家から出て散歩していれば、周囲に人だかりができてサインを求められる。店に入って食事をしていれば、店内の全員が自分に注目する。「なんか安いうどんをうまそうに食べてたwww」なんてSNSに挙げられたり。カフェに入ればファンが次々に握手を求めてくる。ファンなので無下にもできず、一緒に写真を撮って握手……。

24時間監視下に置かれる、全く自由のない生活と人生。私などは自由のために生きている leave me alone 体質なので、多分1日で気がおかしくなってしまうだろうと思います。というか、こんな責め苦に耐えられる人間は稀なんじゃないでしょうか。

だから、芸能人、とくに世界的に有名なセレブは大なり小なり「おかしく」なってしまうんだろうと思うんですよね。ある人は薬物中毒に陥り、ある人は新興宗教に走り、ある人は整形手術に整形手術を重ねて原形を止めない風貌になり、またある人は奇行に走る。

「他者の目」は、かくもすさまじい呪い効果を持っている。だからこそ、古代の刑罰に「目潰し」があったのではないかと思います。


資本主義は、(論理的必然性は無いにせよ)実際上「会社の永続性」を要求し、個々人に「お金をいつまでも稼ぎ続けねばならない」という呪いを掛けてきますし、個人主義は「一人ひとりの人間はそれぞれ個性的であらねばならない」という呪いを掛けてくる。その呪いに気付いて自覚的に暮らせる人・それなりにうまく付き合っていける人はいいんですが、多くの人がその呪いにまとわりつかれていることに気付かず生を終える。なんかセネカ先生っぽい言い方ですけど。

あと私が日々の生活でよく感じるのは、「言葉による呪い」。人間は、自分の言葉にも他者の言葉にも縛りつけられますよね。普通はこれを「約束・契約」と呼びますが、別の言葉で言えば、「拘束」であり、「呪縛」であり、「呪い」でもあります。人はそこから逃れることはできません。逃れてしまえば、法的または社会的に何らかの罰が与えられるからです。債務不履行で訴えられたり、詐欺罪で処罰されたり、非常識・恩知らずとののしられたり。

数日前、アメリカの政治的右派インフルエンサーと呼ばれる男性が、衆人環視の中、射殺されるという事件がありました。SNSで調べてみると、無修正の映像がありますね。談話中に弾丸が(おそらく)頚動脈を貫通し、男性はすさまじい勢いで血を噴出させながら倒れ込みます。まるで黒澤明の映画のように……(見たい方は自己責任でご覧下さい、かなりショッキングな映像です)。おそらくは即死であったでしょう。

言論を銃弾で封じ込めるという事があってはなりません。加えて、被害者にまだ幼い子供がいるということを聞けば胸も痛みます。ただ、彼の生前に発した無神経・不謹慎な言葉の数々が、彼に強烈な「呪い」を掛けたんだろうなという気がしてなりません。

パレスチナは存在しないとパレスチナ人の前で堂々と言い、パレスチナ市民が虐殺されているのは、彼ら自身が悪いのであって、イスラエルは全く悪くないと言うその無神経さ。あなたは、学校や病院に爆弾が落ちてきて、命を失ったり重傷を負ったりした子供たちの前で、本当に「君たちが悪い・君たちの責任だ」なんて言えるんですか?

彼は、日本国民が戦争で多数なくなったのも日本国民に責任があるのであって、アメリカは一切悪くないと言うんですが、戦闘に参加していないのに原爆を落とされて亡くなっていった人々、塗炭の苦しみを味わった人々の前で、本当にそんなことが言えるんですか?

米国民が銃を所持する権利について問われた際も、銃を所持する権利は非常に重要な権利であって、一定数の犠牲が銃によって生まれても、それはやむを得ないコストであると述べていたんですが、今回の射殺は、まさにその「呪い」が現実化したとも言えます。人々の憎悪をひたすらに集め、その呪いに絡め取られていったとでも言いましょうか。

彼にもう少し他者への理解力・共感力とでもいうものが備わっていたなら、ここまで「呪い」は強くなかったであろうにと思うんですが、いかがでしょうか。

古代ローマの喜劇作家、プブリウスにこんなセリフがあります。

「だれかに起こりうることは、だれにも起こりうる」

本当にそうだと思います。誰かに起きたことは、明日私に起こるかもしれない。もちろんあなたにも。他者への理解力・共感力は、「言葉による呪い」の解毒剤かもしれませんね。