あっという間にゴールデンウィークも終了しまして、すっかり仕事モードに戻っております。というか、授業こそないものの、GW中も大量に溜まった雑務をこなしておりましたので、完全なバケーション気分にはなりません。まあ、自営業の宿命ですね。
さて、最近AI(人工知能)が巷でもよく取り沙汰されるようになりました。専門家や好事家の間ではもう何十年も前からホットトピックだっただろうと思うんですけどね。
実際、高校時代の同期で大学も同じだった友人は、かつてN教授(京大総長も務められた情報学の先生です)のもとで人工知能を研究しておりました。学食で一緒に食事をした際に、研究内容を話してくれたことがあるんですが、私のレベルではチンプンカンプン。コンピュータがどのように自然言語を処理するかという話だったんですけどね。
そうした研究の上に、今のLLM(Large Language Model : 大規模言語モデル)が成り立っているんでしょうが、代表例として近時よく取り上げられるのがご存知 ” ChatGPT “。何か覚えにくい名前ですよね。” Chatbot Generalized Pre-trained Transformer ” の略だそうですが、私は「おちゃっぴい」と呼んでいます(笑)。
「おちゃっぴい」はもう死語なのかもしれません。大辞林にはこう定義されています。
「おちゃっぴい」
1.(女の子が)おしゃべりで活発で,茶目っ気のあるさま。また,そのような女の子。「―な娘」
2. いくら働いても報酬がなく,割のあわないこと。「御褒美を貰ふ時は親方一人であたたまり,此六蔵は―」〈浄瑠璃・神霊矢口渡〉
ChatGPT、使ってみたことのある方はご存知かと思うんですが、定義1、つまり「茶目っ気のあるおしゃべりさ」なんていうところは結構当を得ているのではないでしょうか。私は新し物好きなので、話題になり始めた頃、飛びつくようにして ChatGPT を使ってみましたが、ペラペラと嘘をつきまくるんですよね、しかも思いっきりまことしやかに(笑)。あまりにも自信満々に嘘をつくので、またご紹介しようかと、いくつかのケースをコピーして保存してあるぐらいです。
そんなわけで個人的には「面白くて使いようによってはそれなりに使える道具が出てきたな」ぐらいの感想なんですが、マスコミが妙に人々の恐怖を煽り立てているような気がしてなりません。曰く、「○○という仕事はもう成り立たない」「●●という職に就いている人は失業するしかない」などなど。
いやいや、あり得ないでしょう。
テクノロジーの進化と人々の職業に大きな関係があることは私も大いに認めます。でも、そうそう簡単に人々が仕事を奪われて無職になるとは思えないんですよね。もちろん、直接的に影響を受ける職域というのもあるとは思います。電気の時代になって灯油ランプを作る仕事はほぼ不要になったでしょうし、新聞が大量印刷される時代になって瓦版を刷る仕事もいらなくなったでしょう。
でも、それと同時に新しい仕事も創出されたはずですよね。電気技師とか、新聞印刷工とか。とすれば、社会全体で見た仕事の総量はあんまり変わらなかったのではないか。
個人的に興味のある話なので、今までこの話題に関する本をなにやかやと読んできましたが、18世紀後半の産業革命の頃から、人々には「仕事を奪われる!」という危機感があったようなんですよね。気になる人は「ラッダイト運動」について調べていただければ。簡単に大辞林の説明を引いてみると下記の通り。
「ラッダイト運動」
イギリス産業革命期の機械打ちこわし運動。1811~17年,中部・北部の手工業者たちが生活苦や失業の原因を技術革新と機械導入によるものとして起こした。運動の指導者と目されたネッド=ラッド(Ned Ludd)にちなむ命名。ラッディズム。
で、私が思うのは「あんまりビビらなくていい」ということなんです。そりゃ、テクノロジーの進化によって産業構造が変わるのは当たり前です。でも、それに合わせていく能力や知性があれば何にも恐くない。だから不必要にビビる暇があったら、次の波に適応できるよう能力や知性を高めておいた方がよっぽど賢明だと思うんですよね。
そういう意味で、本当に本当に勉強が大事なんだよと言いたいんです。それは子供も大人も変わらないと思います。学校を卒業してもまだまだ勉強。場合によってはまた大学や大学院に戻ってもいい(私もいずれそうしたい)。
私の今の仕事で言えば、「いったい何時になったらAIと勝負させてくれるねん」と、ずっと前から思っております。生来的にバトル好きなのです(笑)。中学受験をする小学生の指導とか、勉強が苦手な小学生の指導といったフィールドで、どっちがより成果を上げられるか、ヨーイドン!みたいな。そういう機会はまだ訪れそうにありませんが、手ぐすね引いて待っております。
あまり言及している人を見ないんですが、「おちゃっぴい」もとい「ChatGPT」が提供してくれるのは、あくまでも「文章」です。提供される情報を、自分の目で「読む」か、自分の耳で「聞く」しかありません。つまり受容側(生徒側)の読解力・聴解力が大前提になっている。
読解力・聴解力が未熟な人を相手に、どのように文章を読み解き書くのかを伝えるのは簡単な話ではありません。言葉の力がまだ発展途上にある人に、言葉の力をつけることは、言葉・文章を用いては十分に成し得ないところがあるからです。なにか言葉を越えたところで伝えないとならない部分があるとでも申しましょうか。
「拈華微笑(ねんげみしょう)」と言うと大げさすぎますが、人が人(特に子供)に何かを伝えようとする時、どうしても言葉を越えたものが必要になることがある、そしてそれはまだまだAI(人工知能)の成し得るところではないし、今後もそれは期待できないのではないかと私は思います。そういう意味で、学校や塾がその存在意義を失うことはまだまだ考えられない。
いつかAIと闘いに臨む日が来るのを心待ちにしております。