ネット上でニュースを読んでいると、色々と面白い記事に出会います。最近見つけた面白い記事をご紹介。
奨学金には手を出すな/純丘曜彰 教授博士 – ライブドアニュース
一般的な「奨学金」がいわゆる貧困ビジネスであることを、辛辣に指摘されています。論調はとても激しいものですが、ここまで厳しく指摘されないと分からない人が多いという事に憤りを感じていらっしゃるのでしょう。ある意味、とても良心的な記事だと思いました。
そもそも「奨学金」なんていう名前がインチキもいいところ。(中略) 日本で一般的な旧「育英会」、現「学生支援機構」のものは、英語のスチューデント・ローンと呼ぶべき、ただの巨額の個人の借金。なのに、金利その他を補填している分が奨学金なんだ、などと屁理屈を言う。やつらは、世間知らずの若者を喰いものにする天下りの闇金屋。
(上記リンク先の記事より引用)
確かに、「末は博士か大臣か」なんていう時代の大学なら、上記のようなスチューデント・ローンもペイするのかもしれません。しかし、現在の大卒という肩書きは何を保証するものでもなく、本当に価値のある「借金」なのかは真剣に検討を要する問題です。大学生本人だけではなく、ご家庭全体で検討すべき課題だと思います。
こういう話になると、教育や学問にお金がかかりすぎるのが日本の悪いところだという主張がよく聞かれるんですが、私は全然そうは思いません。
自分の価値を高め、社会の中でよりよい位置を占めるために勉強するという一般的な考え(かなり功利的な考えですが)に立てば、勉強は投資そのものですから、お金がかかって当然ですし、学問を楽しい娯楽だと捉えれば(私はこの考えに近いです)、これまたお金がかかって当然。
世界を見ると、大学が無償になっている国なんかもありますが、それは極めて特殊な例外的事象ではないかと思うのです。いや、そりゃ私も無償の大学っていいなとは思いますよ。でも、その代償として誰かが税を支払い、どこかの予算が削られる。学問や勉強はどちらかというと高等な精神的営みであるわけで、そんなところよりも、明日の食事に事欠く人、難病に悩んでいる人、そうした生活の根本的なところで困っている人の方にお金が使われる方が健全ではないのか。
もちろん、高度な研究や、社会を改善するための学問に多額の資金が投資されるのは別論です。社会全体から見て有益なわけですから。ただ、高等教育機関を「万人」が無料or安価に利用できるようにせよというのは、やや行き過ぎた主張であるように思うのです。
そんなところから、学問や勉強にお金がかかるのは当たり前、一児の親としては教育費最重視家計政策を採るに如かずと愚考する次第ですが(大げさ(笑))、このあたりは妻とも意見が一致しています。
子どもに教育・学問を与えてやれば、その子どもがしっかりとした大人になって、社会の安定したメンバーになってくれる。そして、そうなってくれそうにないなら(笑)、スチューデント・ローンという借金をしてまでする「学問=贅沢」は我慢させて、別のトレーニングをさせてやった方がいいのでは、と思う次第。
そもそも本当に学問がしたければ、リタイアしてからでも全然構わないと思うんですよね。70代・80代の大学生や大学院生が多数いたって構わない、というより、それはとても豊かな社会だと思っています。
お金も稼いできて、生活も安定している。子どもも独立したし、物欲の盛んな年頃でもない。でも、体力はちょっと不安になってきたから、あまり激しい活動は困る。そうだ、人生の最終段階にドバッと学費を使って何か学問を修めようか。そんな老年期に私は憧れています。