終戦日前日の大阪大空襲に学ぶ

3月15日未明の時点で一番気になるのは、何と言っても、原子力発電所関連のニュースです。

各原子炉の状況がどうなっているのか。仮に最悪の場合を迎えるとすれば、放射線被曝はどの範囲にまで及ぶのか。東北は、関東は、関西はどのような状況になるのか。被曝した場合はどのような対策を取ればよいのか。

杞憂であって欲しいとは思いますが、各人が真剣に情報を収集し、考えねばならない時なのだろうと思います。


唐突ですが、歴史を学ぶ意義は、過去のモデルケースを研究することにより、現在のケースを深く考察することができるという点にあります。

ある事件が起きたとき、人々は何を知り、何を知らず、どのように考え、どのように行動し、どのような結果を得たのか。確かに、それを知ったからといって、全く同じ条件の事柄は起きないでしょう。しかし、「今ここにある事柄」にどう対処すべきかを考える際、基礎になる知識は、「過去のケース=歴史」しかありえません。

日本に限らず、国家的・究極的な危機が生じた際、政府が一般国民にすべての情報を開示するというケースは極めて稀です。もちろん情報を開示して欲しいんですが、現実はそんなに甘くはないというのが、過去のケースが教えるところです。


私の住まうこの玉造近辺には、第二次世界大戦終結時まで、大阪砲兵工廠がありました。今の大阪城公園にあたる場所です。米軍は、この東洋最大の軍需工場を終戦日前日(1945年8月14日)に爆撃し、一千人近くの命を奪いました(詳しい犠牲者数は不明)。

明日で戦争が終結する、明日まで生き延びれば爆撃で命を落とすことなんてない。よりによってその前日に、あたら命を落とした人々は、軍需工場で働いていた一般の市民です。

当時の記録を読んでみると分かりますが、工場の上役、軍や警察の上部は、あと数日で戦争が終結するという情報(少なくとも重大な局面にさしかかるという情報)を掴んでいたようで、彼らが犠牲者に名を連ねることはありませんでした。戦争終結の情報があれば、再軍備をもたらしかねない軍需工場が最後に爆撃されるということは、容易に想像できたでしょう。

上層部が情報を独占せず、数日だけでも工廠を臨時休業としておけば……。

終戦前日に落命した人達から、何かを学ばねばならない、今に活かさねばならない。そうでなければ、彼らは浮かばれない。私は被災者慰霊碑の側を通る度にそう思います。

今日はここまで。