春や昔の春ならぬ

それにしても本当に忙しかった今年の4月。口内炎が出来ては消え、出来ては消え。多忙すぎるときのいつものパターンです。

医療関係の方々のことを考えると贅沢は言えませんが、春の訪れを喜ぶどころではありません。感染症の不安を日々感じるだけにとどまらず、仕事量は激増し、活動は大きく制限され。今までにこんな春があったでしょうか。

心をよぎるのはこの歌。

月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして

在原業平。この歌、伊勢物語にも古今和歌集にも収録されています。授業じゃないので、細かい背景や品詞分解はすっ飛ばします。

詞書はこう。

五条のきさいの宮の西の対にすみける人に、ほいにはあらでものいひわたりけるを、むつきの十日あまりになむ、ほかへかくれにける、あり所は聞きけれどえ物もいはで、またの年の春、梅の花さかりに月のおもしろかりける夜、こぞをこひてかの西の対にいきて、月のかたぶくまであばらなる板敷にふせりてよめる。

簡単に意訳。ある男(業平)に付き合っていた女性がいたが、その女性、他所へと身を隠す。大変高貴な男性のもとへ嫁いだんですね。翌年の春、梅の花ざかり。男は逢瀬を重ねた場所に赴き、月を眺める。がらんとした部屋の空気は冷たい。思わず口ずさんだ歌。

月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして
(月はもう昔の月ではないのか。春ももう昔の春ではないのか。私の身だけはもとのままであって。)

令和二年の春は、まさに「春や昔の春ならぬ」です。

おそらく、アフターコロナの世は、今までと大きく変わったものになるでしょう。もう帰ってこないもの・取り戻せないものが数えきれないほど生まれる。

でも、考えてみれば、人の世というのはそういうものですよね。手にしたものがいつまでも手元に残り続けるわけではない。それが激しい時代にたまたま私達は立ち会ってしまった。

そうであれば、二度と帰らぬものに拘り続けることは避けたいなと思います。むしろ新たに手にするものに喜びを感じるようにしたいなと。

今、大変な思いをなさっている方には失礼な言い方かもしれませんが、いつか「昔のままならぬ春、それはそれで良いものだ」と言えるようにしたいですね。

子供たちも大人たちも、力を合わせてがんばっていきましょう。