自分の幸福の軸を持って欲しい

あけましておめでとうございます。

2020年も塾生の学力向上のために頑張って参りたいと存じます。
今年も宜しくお願い申し上げます。


とまあ、堅苦しい挨拶はこれぐらいにしておきまして。

塾の方は1月6日(月)まで年末年始休業とさせていただいておりまして、久々に(本当に久々に)、自由な日々を過ごしています。

常夏ハワイのリッツ・カールトン、スイートルームに差し込む日差しに目を細め、ルームサービスの朝食に舌鼓を打つ。さあ、この記事を書いたら、何をして一日過ごそうか……なんてことは勿論なく、いつもの自室でカキカキしているわけですが、それで不幸せなのかというと、そうでもない。

今のところ健康も害していませんし、家族仲良く過ごしています。仕事も楽しくさせていただいていれば、やりたいことも山積みです。まあ、いつも時間が足りないのは仕方がないとして……(笑)。

結局は人間の幸福は自分の内側にあるのであって、外側(社会や他人からの評価)にあるわけではありませんしね。このことを表面的にではなく、心の底から痛いぐらいに理解するということは、本当に大切なことだと思うんですが、学校では教えきれないところです。学校教育や入試指導の場では、どうしても「評価」が不可欠ですから。

もちろん、社会に入れば入ったでまた「評価」され、どこまでいっても「自分の外側」は評価を繰り返してくるわけですが、その評価とは別のところで、自分の幸福の軸を心の中でちゃんと持てるかどうか。それが人生における大きなポイントになると思うんですよね。

まあ私はメンタル強めの図太い系のおっさんですので(笑)、その点問題ないんですが、世の中には、「自分の幸福の軸」とでも言うべきものがきちんと確立されていない人が多いような気もします。

(ちょっと冷たいですが)中年以降の世代は自己責任として、私が特に気になるのは若い世代の人達のことです。具体的には10代〜20代の人達ですね。年齢的に仕方がないところもありますが、他者の評価軸に踊らされすぎない方がいい。

新年早々暗い話で申し訳ないんですが、我が息子は中学3年生。他県の中学校に電車通学しておりまして、利用している路線では結構な頻度で飛び込み自殺が発生します。息子としては、列車のダイヤの乱れから始業時刻に遅れるため、いつも不愉快な思いをさせられているようなんですが、昨年の某日、彼の乗っている正にその車輌に飛び込みがありました。運の悪いことに、息子の乗っていたのは一輌目。

車輌の大きな揺れ、ガラスの割れる音、乗客の悲鳴……。息子は学校を終えて帰宅してからも、無口なままでした。後日、息子とその話をすると、かなりの心理的衝撃を受けたとの由。

亡くなったのが高校1年生で自分とほぼ同世代の学生さんということもあり、ショックが大きかったのも無理はないと思います。私も別に気の利いた言葉をかけられる訳ではないんですが、「若い世代が自死を選ぶのは、すごく親不孝なことだし、何よりも未来の自分への裏切りだと思う」といった話をしたでしょうか。

亡くなったのはおそらく進学校の学生さんだと思うんですが、彼・彼女らの場合、勉強ができるが故のウイーク・ポイントがあります。それは、「勉強」という評価軸にとらわれすぎがちだということ。勉強ができる子の場合、本人も己の学力に恃むところがあるでしょうし、親も周囲の親族も悪気なく彼・彼女らの将来を期待します。

自らの役割(高い成績を維持して難関大学に入学すること)を果たせる場合はよいけれど、そこに問題が発生した際、心中のほころびがどこまでも広がり、発作的に自ら死を選ぶ……そういった構造があるように思います。

そんな時、彼・彼女らが「勉強」以外の評価軸を自分の中に持っていたならば……。親を中心とする周囲の大人が、「自分の幸せは自分の心が決めるものだ、他者に評価させるな、指一本も触れさせるな」ということを真剣に伝えられていたなら……。

今年は、若い人のそんな無残な最期の話を聞きたくないなと思います。

まあウチの場合塾ですから、立場上、「成績なんてどうでもええんやで〜」とは言えないですし、実際、勉強は人生においてとても大切なことだと思っています。

ただ、「自分の幸福の軸」は他者に委ねるべきではない、勉強の成績やお金の多寡といった「他者からの評価」に寄り掛かりすぎるべきでないということは、いくら強調してもし足りない話だとも思っています。

何か年始から重い話でしたね。すみません。

休み期間中は、色々と勉強したり、読書したり、どこかに出かけたりしようと思います。そうそう、ブログ記事も書きたいことが山積みです。ふぅ〜幸せ。