連休中なので、時間がある時に書こうと思っていた話題を。
お亡くなりになってずいぶん経ちますが、米原万里というエッセイスト・小説家・通訳がいらっしゃいます。テレビにもよく出演なさっていたので、ご存知の方も多いかと思いますが、日露首脳会談の同時通訳を任されるほど優れた言語能力をお持ちの方です。
この方のエッセイがすこぶる付きの面白さなんですが、それは彼女の言語感覚がめちゃくちゃ鋭いから。とにかく教えられることや共感することばかりなんです。加えて、日本語と外国語の最前線とも言える同時通訳の場にもいらっしゃったわけですから、その話が面白くないわけがない。
日本語ロシア語間の同時通訳を勤めあげようと思えば、ロシア語に堪能である必要があるのは言を俟ちません。でも何より必要なのは、母語(日本語)に関する高い能力。米原氏があらゆる所で何度も述べていたのは、「外国語の能力が母語の能力を超えることは絶対にあり得ない、だからこそ母語の教育・習得をまず何よりも第一に置くべきだ」ということです。
もう本当にその通りで、私などはもげそうになるほど首を縦に振るんですけどね。色々なレベルの人を見ていて思うんですが、日本語の能力がしっかりしている人は、外国語の習得が容易な上に、その習得速度も速いんですよね。そして何よりも私が力説したいのは、外国語についても高いレベルに到達することが可能だということなんです。
そりゃ、「コーラを一杯下さい」とか「○○駅までの切符を一枚下さい」といった条件反射レベルの日常会話ができれば十分というなら、私も何も言うことはありません。でも、外国語の論文を読んだり、教養レベルの高い人たちと意見を交換するというのなら、母語を通じて習得する「高いレベルの言語能力」が絶対に必要になります。いくら流暢にコーラを注文できたって意味はありません。
ただ、そうは思ってはいない方も多いようで、「幼い頃から英語を!」という風潮は年々強まっている気がします。実際、文部科学省の施策も全体的に見てそうした傾向が強まっているわけです。私の目から見ると、子供を低いレベルに固着させてしまう可能性が高いように見えてなりません。
正確なデータは持ち合わせていませんので、私の感覚に基づく話になりますが、幼い頃から英語圏で暮らしてきた子供(もちろん流暢な英語で日常会話をこなせる)が日本で大学を受験する際、英語の成績は必ずしも芳しくない感じがあります。国語は言わずもがな。
文部科学省もどうして今更そんな植民地的な言語教育政策を採るかな、そんな教育が効果を発揮するのはごく一部の限られた人だけなんだけどな、なんて思うんですが、私がああだこうだと言っても大した意味はございません。
この話は、また立派な学者さんの説を紹介しながら別途記事にしたいと思います。
さて、今回紹介しようと思うのは、米原万里氏の随筆『ドラゴン・アレクサンドラの尋問』 (『心臓に毛が生えている理由』(角川文庫)所収)。
この『ドラゴン・アレクサンドラの尋問』、大げさ言うことを許してもらえるならば、言語教育・国語教育の神髄を示す一編だと思います。私は初めて読んだ時、思わず涙ぐんでしまいました。なんて素晴らしい先生なんだろう、なんて素晴らしい生徒なんだろう。しかもドラゴンの教えによって、私たち日本人は米原万里という素晴らしい通訳・小説家・随筆家を得ている。美しい。
実はこの短い随筆、甲陽学院中学2016年度の入試に出題されておりまして、当該問題を宮田国語塾の『難関中学入試国語対策上級編』にも採録しているんですよね。甲陽学院中学国語科の先生方の見識を示している良問だと思います。
『ドラゴン・アレクサンドラの尋問』は短編なので、実際に下記のリンクでお読み頂きたいんですが、私の方でも簡単に説明を加えておきましょう。
:: 立ち読み || 米原万里ベストエッセイII || 角川書店 ::
米原万里氏の父親は、日本共産党の上級党員で、衆議院議員も務めた米原昶(よねはらいたる)。彼は日本共産党の代表としてチェコスロバキアのプラハに赴任することとなり、一家そろってプラハに移住します。
移住先のチェコスロバキアで幼かりし頃の米原万里が受けた教育は「ロシア語」による教育。その頃のチェコスロバキアは、悪く言えばソ連の属国的な国家。東側陣営の一員として、ソ連政府が直接運営するソビエト学校を受け入れていました。
教科書・教員すべてがソ連から送られてくるという教育体制だったそうですが、この辺りは彼女の著したノンフィクション『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(これもすごく面白い)に詳しいところです。
ここからは『ドラゴン・アレクサンドラの尋問』の内容。
ソビエト学校の図書室には、生徒一同から「ドラゴン」と恐れられるアレクサンドラ先生がいた。小学2年生の米原万里は怒られぬよう貸出図書に関するマナーを守り、本を返却に行く。
するとアレクサンドラ先生、貸出図書に関する内容を根掘り葉掘り聞いてくる。その様はまさに「尋問(ダプロス)」。まだ拙いロシア語でポツポツと答え、時に沈黙する米原万里。しかしドラゴンは諦めない。執念深く「主人公の名前は?」「歳は幾つぐらい?」「職業は?」 と「尋問」を続ける。
ドラゴンは、全身全霊で幼い少女の言葉を聞き、それらを正しい言い方に直し、整った文章に再構成する。そしてさらに先に進むように促す。
疲労困憊した米原万里はもう懲り懲りだと思ったはずなのに、また図書室の本を借りてしまう。いつしか、返却するときにドラゴンに語り聞かせることを想定しながら読むようになる万里。
そんな彼女の話をドラゴンは毎回注意深く聴く。そして、ロシア語の語彙や文法の誤りを指摘し、読解の甘い部分を容赦なく突く。
気がつけば、万里の読解力・表現力は素晴らしい成長を遂げ、国語(ロシア語)教師やクラスメイトを驚愕させるまでになっていた……。
惜しむらくは、上記リンク先にはエッセイ末尾が掲載されていません。私の方で付け加えておきます。
「では、今読んだ内容をかいつまんで話して下さい」
わたしは自分でもビックリするほどスラスラとそれをやってのけた。いつのまにか、わたしの表現力の幅と奥行きは広がっていたのだった。国語教師もクラスメイトたちも、しばしあっけにとられて静まりかえった。わたしはほほがゆるむのを必死でこらえながら、心の中でドラゴンに感謝した。
今も、本を読むときに、頭の片隅でドラゴン・アレクサンドラにどんな風に語り聞かせようかと考えている自分がいる。
『ドラゴン・アレクサンドラの尋問』(『心臓に毛が生えている理由』所収)より引用
いかがでしょうか。
読解とはつまるところ、「その文章に何が書いてあったかを読み解く」ことに他なりません。ドラゴンことアレクサンドラ先生は、相手の理解度を試すべくしつこく尋問します。これは多人数を相手にはできない作業。その上で、相手の読みの甘いところを指摘し、語彙・文法面の誤りを丁寧に正していきます。
まさに読解指導・言語教育・国語教育の要諦を示していると思います。
そして、特筆すべきは学ぶ生徒の姿勢。どのように読み・どのように表現すべきかを常に念頭において文章を読んでいます。言い換えれば、ドラゴン先生の指導に素直に、かつ、一生懸命に応えようとしている。その結果として、読解能力・国語能力が急激に向上してゆく。
小学生の言語能力・国語能力を育成するのに、これ以上の方法はないでしょう。一人一人に手をかけて丁寧に「尋問」する。これこそが王道であり、正道であると思います。
こうした指導が優れた随筆家・小説家・通訳を生んだこと自体大きな成果ですが、それだけではなく、米原万里氏が長じて後もドラゴン先生への説明を念頭に置いて書物に親しんでいたという点にも注目してもらいたいと思います。
超一流の言語能力を有した人がどのように文章を読んでいたか。結局は、「何が書いてあったか」「読み取った内容をどのように人に説明するか」を念頭に置き続けて文章を読んでいたわけですね。
これこそ読解の神髄でしょう。
今となってはかないませんが、アレクサンドラ先生や米原万里氏には一度お会いしてお話をさせていただきたかったなと思います。間違いなく話の合う方々だったでしょう。