Survivors’ banquet

最近、小学生の頃の同級生N君が、同窓会を企画してくれています。とても有り難く思い、同窓会を楽しみにしているんですが、当時の担任の先生は逝去なさったとの由。私も44歳なので、教わった先生がお亡くなりになってもおかしな話ではないんですが、やはり寂しい気持ちがするのは否めません。

そんなこともあって、学生時代の同期のことを時々考えることがあります。全員のことを知っているわけではありませんが、高校時代の同期は既に何名か鬼籍に入っています。高校在学中に2名が、卒業後数年間の間でも数名が鬼籍に。私の知らないところで亡くなっている人もいるでしょうから、その数はもっと多いのかもしれません。

先日も、妻(高校の同期なのです)の友人から、同期生の死を聞きました。19歳・20歳の死ではありませんが、やはり早すぎることに違いはありません。本人の無念や、残されたお子さんの悲しさは察するに余りあります。そして、今、子を持つ親となって何より強く思うのは、子を失われた親御さんの悲痛です。


「死」というのは究極の平等です。どんなに強大な権力を握った人も死ななかった人はいない。どんなに財を蓄えた人も死ななかった人はいない。それはある意味、素晴らしい事だと思います。

私が昔から大好きな言葉は、「memento mori」。何か乙女チックな花言葉みたいですが、「死を忘るるなかれ」というラテン語の有名な格言です。

いつかは自分にも死が訪れる。そのことを頭ではなく、身体全体で悟ることが、命を充実させると思うのです。

吉田兼好も言います。「死期は序を待たず。死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。」(徒然草155段)

「死期には順序なんてないし、前から来るわけでもないんだよ、後ろからヒタヒタと迫って来ているんだよ」ということですが、徒然草中、これほど心に迫る段はありません。

いずれにせよ、生き残っている私達は、この世という宴を、残された宴を、真剣に楽しまねばならないと考えています。