さっきニュースを読んで知ったんですが、ジブリの新作は『風立ちぬ』というタイトルのようですね。堀辰雄の作品『風立ちぬ』をアニメ化したのかなと思い、公式サイトを見てみると、どうもそうではないらしい。といって、全然関係ないわけでもない模様。予告編もないので、ストーリーがよく分かりません。気が向けば見に行くかも。
堀辰雄の描く世界は結構好きで、高校生の頃に『風立ちぬ』を含め何冊かを読んだ覚えがあります。ちょっと文学少年(笑)。
大学に入ってから、体育会系の某クラブに入ったんですが、その時の思い出話。ある日部室に行くと、先輩が文庫本を読んでいます。
「あれ、先輩、小説を読んでるんですか?何の小説ですか?」
(本を隠しながら)
「ん?別に大したもの読んでないよ……。」「え〜っ、隠さないでいいじゃないっすか。見せて下さいよ〜。」
(依然として隠しながら)
「何読んでてもいいじゃんかよ!」「隠されると余計に知りたくなりますよ、先輩!教えて下さいよ〜。」(しつこい)
「しょうがないな〜。ホレ!」
と手渡された小説は、堀辰雄の『風立ちぬ』でした。この先輩、失礼ながら、どこか無骨で不器用な感じの方で、ロマンティックな感じは微塵もありません。
「え〜っ!先輩、堀辰雄を読むんですか!めっちゃ意外ですよ!」(失礼な奴だ)
先輩としばし文学談義、「病弱な美少女と高原のサナトリウムで恋に落ちる」というシチュエーションについて、むさ苦しい部室で無駄に熱く語り合ったことを覚えています(笑)。
さてさて、そんな個人的思い出のある堀辰雄ですが、上記『風立ちぬ』では、ヴァレリーの詩を引用し、その訳として、
「風立ちぬ、いざ生きめやも」
という表現を与えています。このフレーズは非常に有名なので目にしたことのある方も多いかと思います。私、フランス語を云々する素養はありませんので、問題をその日本語訳に絞ります。
下記ブログ記事によれば、元のフランス語は英語に訳すと、
The wind is rising: we must endeavor to live.
という風になるとのことなので、原詩は明らかに「生きようとする意志」を感じさせる表現でしょう。
で、堀辰雄の表現なんですが、どうも妙な訳詞になっています。古文解釈の観点から解説していくと、「いざ」は現代語の「さぁ」にあたる言葉。ここは何の問題もありません。「いざ生きむ」「いざ生くべし」というように意志の助動詞と用いれば、落ち着きがいいところです。
が、しかし、堀辰雄は「生く」という動詞に「めやも」という表現をひっつけます。これはかなり解釈に苦しみます。
というのも、上記を分解すると、「め」は意志の助動詞「む」の已然形(後の「や」が文末用法なので已然形になります)、「や」は反語の係助詞、「も」は詠嘆の係助詞ということになり、意味としては、強い反語、つまり、
「生きようか、いや生きなどしない」
という意味に捉えるのが普通だからです。
ということは、「風立ちぬ、いざ生きめやも」という表現は、現代風に平たく言い直すと、「風が立った、さぁ死のう」という事になってしまいます。小説の内容から考えて、明らかにおかしいですね。しかも、文語というより、上代語(奈良時代以前の言葉)です。何か腑に落ちないな……と思いながら、ずっと放置していました。
最近、パティ・スミスの「Ghost Dance」という曲を聞いていて、その中のフレーズ「We shall live again, we shall live」から、ふと「いざ生きめやも」という表現を思い出し、調べてみると、堀辰雄の訳、丸谷才一と大野晋がはっきり「誤訳」と断定してくれているんですね。やっぱりそうですよね!意を強くしました。
下記ブログ記事がとても役立ちました。
堀辰雄『風立ちぬ』「いざ生きめやも」について
なお、これしきの間違いで優れた文学作品はびくともしません。依然として、堀辰雄の小説は素晴らしいことに変わりないことを付言しておきたいと思います。
「いざ生きめやも」の「もやもや」これにて一件落着。
Ghost Dance – Patti Smith