2009年3月25日の毎日新聞に「源氏物語を語る」という企画特集が掲載されていました。
研究者同士の対談形式になっていて、色々と興味深い記事なんですが、秋山虔氏(東大名誉教授・源氏物語の研究者)の発言に強く同意。一部をご紹介しましょう。
(秋山氏発言)
我々は遺産に恵まれているという自覚を持つべきです。現在、前途に希望の持てる人は少ない。以前のような経済大国でもなくなるし、国際政治でも発言力はどうでしょう。では、日本のとりえは何か。文化遺産に恵まれ、その伝統の中に生きていることです。古典は人間とは何かを教える。源氏だけでなく、徒然草も平家物語も。古典に恵まれた文化伝統に我々は育まれている、それを「よりどころ」としなければならない。
千年の時を経て生き残っている古典。やっぱり伊達じゃないんですよ。素晴らしいからこそ、読み継がれ、生き残る。
私自身、日本という国に誇りを持つといった大層なことは苦手なんですが、「日本の古典文学」には誇りを持ってよいと思います。後ろ向きになれと言いたいわけではありません。むしろ古典は今を生きているのだと思うのです。
ただ、古典の良さは、ある程度年を取らないと分からないのも事実である気がします。実際、私も子供の頃は古典と言われても、何も感じるところはなかったわけですから。
こんなエピソードが紹介されています。
(秋山氏発言)
京都大で中国文学を講じた故高橋和巳氏がエッセーで、「論語」が壁に投げつけたくなるほど嫌いだったが、付き合っているうちに規範的な正典になった、と。
この高橋和巳氏のエピソードは、別のところでも聞いたことがありますが、何とも味わい深い話です。仇敵転じて親友となる。私も「論語」がどうも苦手だったんですが、年を取るにつれて「下々の民を治めるために論語的な道徳を強要する社会」が嫌いなだけである、ということが理解されてきました。
中島敦の「弟子」を読んでみると、そこに描かれる「孔子先生」は腕っ節の強い人徳者(ただし暴力は振るわない)。何とも格好のよい男です。真偽の程は別として、そうした人間像を介してみると「論語」の内容自体は、納得できる事柄ばかりです。胸にストンと落ちてくる感じとでもいいましょうか(余談ですが、自分の息子の名前は「論語」から字をもらっています)。
次に言葉(日本語)の豊かさ。
(秋山氏発言)
言葉の素晴らしさは古文を学ぶ中で感じ取れます。古語を現代語に言い換えると、語感が死んでしまう。いかに自分たちの言葉が貧寒であるかもまた逆に実感できます。ことに心情表現の形容詞はそうですね。
正にその通りです。古文や古語を通じてこそ、言葉(日本語)の豊かさを初めて知ることが出来るのだと断言したい。そういう意味で、古語・古典を知らずして国語を語るべきではないと思っています。秋山氏のように、自分たちの言葉が貧寒であるとまでは思いませんが、古語の心情表現や美的表現が本当に豊かなのは間違いありません。
受験生は、合格して暇になったら、受験勉強を離れて気楽に日本の古典に親しんでもらいたいと思います。「気楽に」というのがポイントなんですが、「古典との気楽な付き合い方」はいずれまた記事にしたいと思います。