下品な物語

活字中毒者にありがちなことですが、私も入浴時はたいてい何らかの本を読んでいます。もちろん濡れても破れても全然OKな廃棄前提の書籍しか持ち込みませんけれど。

時々そういう本をブックオフに仕入れに行きまして、100円均一のところから適当に見繕います。内容を検めるなんてことはしません。作者名と書籍名だけ見てパパパッと選びます。

直近の仕入れ時は何となく時代小説が読みたくて、10冊ほどの時代小説を購入。読んでいてつまんないなと思うものもそれなりにありましたが、100円なので特に気にはなりません。

で、一番面白かったのが、宮部みゆきの『三島屋変調百物語』。宮部みゆきをたくさん読んでいるわけではありませんが、この人は本当にストーリーテラーだと思います。グイグイ引き込まれるんですよね。

いい小説って、こちらが読むための努力をする必要がないんです。勝手に引き込まれる。次はどうなる、それからどうなる。否応なく作品世界に引き込まれてしまう。

というような話を副代表にしますと、何と『三島屋変調百物語』シリーズは全部読んだとの由。何なん、何なん、こんな面白い小説読んでたんなら教えてくれよ。この連作、私の大好きな岡本綺堂を思わせる作風です。私は岡本綺堂を日本の生んだ最高の小説家の一人だと思っておりますので、最高級の褒め言葉のつもり。


内容はさておき、解説に書かれていた内容に共感を覚えたので引用します(解説者は縄田一男)。

宮部みゆきは、次のように指摘している。
いわく「こんなに不幸な人がいるんだから自分はまだマシだとか、私たちはともすれば物語の使い方を間違いがち。そしてともすれば間違うようなことを、ハッキリいわないとダメな時代なのかな、ヤンワリではもう伝わらないのかなと、最近私は何かにつけて思うんですね」と。

私が小学生の時、社会の時間に「江戸時代の身分制度」のことを先生がお話しになったのを覚えています。江戸時代には「えた」や「ひにん」と呼ばれ差別された人達がいたこと、苦しい暮らしを強いられる農民達に「自分たちより不幸な人もいる、私たちはまだマシなほうだ」というふうに思わせるのに、彼らの存在が役立ったということ。

その時、私はとても嫌な気持ちになったことをよく覚えています。ただ、そのころは何が原因で嫌な気持ちになるのかをうまく説明できませんでした。心から嫌な気分になる。でも、理由は名状し難い……。

大人になった今なら理由がよく分かります。物語の使い方が「下品」なんですよね。

もちろん、被差別者を作る統治者が一番悪いんです。それは幼い頃の私にもわかりました。でも、本当に嫌だったのは、統治者によって「作られた物語」を無批判に受け取って、他人の不幸を自らの安心材料とする品性。それこそが心から汚らわしく思えたのだということが今なら分かります。物語の効用はそんなところにあるべきではない。

為政者の作った下品なナラティブを無批判に額面通り受けとるのは、江戸時代にあっても、令和の世にあっても、恥ずべきことだと私は思います(為政者の作るナラティブが全て下品だと言っているわけではありません)。

宮部みゆきの発言を読んで、そんなことを思いだしました。私は世界に「美しく上品な物語」を求めているのかもしれません。