ここ数年で、音楽の聴き方が大きく変わってきたと言われます。
音楽の発生当初から長い期間にわたって「生演奏」しか音楽を聴く機会はなかったはずですが、録音技術が開発されて以来、レコード・CDといった「音盤(のコピー)」を購入して聴く、というのが音楽とつきあう最大の手段になっていたわけです。
それが次第に「音楽データ」を購入して聴くというスタイルに変わってきましたが、これはまだ「音盤(のコピー)」を購入して聴くというスタイルの延長線上にありました。法的構成はひとまず置いておくとして、対価を支払って「その音楽自体」を買うというイメージがありましたからね。
ただ、ここ数年隆盛を極めるようになった「サブスクリプション」スタイルは、それまでとは大きく次元が異なっているように思えます。ご存知の方も多いと思いますが、「サブスクリプション」スタイルというのは、一月いくらの定額を支払えば、すべての音楽が聴き放題というシステムです。
かくいう私も、朝から晩まで7000万曲を自由に聴ける「Apple Music」というサブスクリプションサービスのお世話になっておりまして、もうこれなしには生きていけない身体になってしまっています。あれほど買いまくっていたCDの購入枚数が、昨年はついに0枚を記録したぐらいでして、その依存度は自分でも驚くほどです。
Spotify(5000万曲)や Amazon Music Unlimited(7000万曲)といった同様のサービスがいくつかありますが、気に入ったアーティストの「アルバムや曲を購入」するのではなく、「音楽を好きなだけ聴く権利の対価を支払う」点において、どれを利用しても事情は同じです。
これは私のような熱心な音楽リスナーからすると本当に革命的なこと・有り難い(有り難すぎる!)ことなんですが、さて、このシステム、「音楽を生みだす側」にはどんな影響力を持っているのか。
ある人がTwitterで、「無限といっていいほど音楽に触れられる世代の人達は、きっとこれまでとは異次元の音楽を作り出すはず」といった趣旨のことを話していました。それに賛同する人々も多かったように思うんですが、私はあえて言いたい。音楽制作は、音楽を作る人の才能やイマジネーションにほぼ全て依拠するのであって、どれほど音楽データが豊富であっても、ほとんど無関係だと。
無限といっていいほどの豊富な音楽に日々触れ続けている私が、一向に音楽を作ることができないのがその証拠……と言うと、才能欠如著しすぎるお前を例にあげても仕方がないと反論されそうですので(笑)、他の例を挙げてみましょう。
紛う方なき天才たるJ.S.バッハやモーツァルトを考えてみて欲しいんですが、多分彼らの聴いてきた音楽の量って、私の数十分の一、数百分の一なのではないかと思うんですよね。しかも聴いてきた音楽ジャンルは現代人に比べて著しく狭小であるはず。それにも関わらず、あれだけの超絶的な曲をジャカスカ作るわけです。
それが天才の天才たる所以だと言われればそれまでですが、やはり「音楽を作る」ということは、インプットの量ではないと思いますね。もう「その人が元から持っているもの」に規定されているとしか言いようがない。
私の敬愛する音楽家早川義夫さんは、「自分で曲を作りたかったら音楽を聴くのを一切やめることが一番大事だ」とおっしゃっています。私は作曲の能力も意志もないので、何も言う権利はないんですが、早川さんの言葉は真実であろうと思います。
だいたい、無料で無限といってよいほど小説を読むことができる図書館というシステムが大昔からありますが、第二の森鴎外や志賀直哉や幸田露伴はなかなか出てきませんよね。やっぱりインプットの多寡じゃないんですよね、創作というものは。
塾ブログなので、話を少し国語の方に向けておきましょう。
上記の話は「読書量と答案作成能力・得点力が必ずしも比例しない」ということと共通性があります。もちろん、読書(ここでは小説を念頭に置きます)が勉強に良い影響を与えるのはほぼ間違いはないんです。ないんですが、その影響度は皆さんの思われているほど大きくはないですね。
国語力を初めとする学力を上げるのに、読書の寄与度って、せいぜい2〜3パーセントぐらいではないかなというのが正直な気持ちです。私の指導経験上、ものすごい読書量なのに国語の点が全然取れないという人は多くいますし、逆にほとんど読書をしないけれど国語の得点力は高いなんて人もこれまた多くいます。
ちょっと長くなりそうになってきたので、続きは別記事にて。