自動車事故雑感 集中力と慎重さ

もう5月ですね。風薫るとはよく言ったもので、随分さわやかな季節になってきました。

ドライブやツーリングが楽しい時期ですが、ここ最近、自動車の絡んだ大きな事故が続発しています。京都祇園の自動車暴走事故、京都亀岡の集団通学小学生への突っ込み事故、関越自動車道の夜行バス事故、亡くなった方々の大部分は、何の落ち度もないはずで、何ともやりきれない気分になります。


アメリカ合衆国では、一定の要件さえ満たせば、一般人でも銃の所持が認められますが、日本のような社会に住まう者からすると、これはかなり危険なことであるように思えます。

しかし、よく考えてみると、自動車のように殺傷能力の高い機械の運転を広く一般人に認めているという時点で、日本社会の危険性も本質的な差はないのかもしれません。上記のような事故・事件を見ていると、つくづくそう思います。

もちろん、銃は殺傷のみを目的とした機械、自動車は殺傷にも用いうる機械、という差がありますが、一旦悪意のある人間の手に渡れば、「殺人マシン」と化することに変わりはありません。今回の事故は、いずれも故意または重大な過失にもとづくもののようですから、自動車が殺人マシンとして「利用」されたと評しても過言ではないでしょう(法的に重過失は故意と同等視されることが多い)。

自動車など、本質的に危険性を有している機械に関しては、何か根本的な対応策が取れないんでしょうか。居眠りを検知したら自動的にエンジンが停止してゆっくりブレーキがかかるとか、酒気を検知したらエンジンがかからないとか。自動車メーカーは儲けにならないことをしたくないでしょうから、行政が義務化するしかないでしょう。

エアバッグなんかについてもよく思うんですよね。急激な衝撃が車体に加わると風船状のものが出てきてクッションになるというあれです。本来、衝撃があれば、ハンドルの間から先の尖った杭が運転手の胸元めがけてシュッと出てくる方がいいのではないか(笑)。危なくてしようがないので、運転手は慎重な運転をせざるをえないという考えです。

それは冗談としても、交通事故で亡くなるのは、自動車を運転している側より、歩行者側が圧倒的に多いわけですから、エアバッグというのはある意味、倒錯した発想だと言えなくはないでしょうか。「エアバッグがあるんだから、ちょっとぐらい無謀な運転をしても俺は大丈夫」という人間も少なからずいると思うんですよね。


先月、自動車を運転していたときの話。

自動車運転免許を持っているのは家族の中で私だけなので、運転はいつも私です。自動車を持つことに意味を感じない私はレンタカー派なんですが(車庫も要らない・税金も要らない・洗車もしなくていい・メンテもしなくていい・最近は朝から晩まで借りても3000円しない)、その日もレンタカーに乗って国道43号線を走っていました。夕刻ということもあって、同乗している家族はスヤスヤ、私だけが運転です。いつもの話なんで慣れっこですが(笑)。

で、前を走る大型トラックを見ていると、微妙にライン取りがおかしい。私も自動車で20年以上、バイクに至っては16歳から25年以上運転していますから、公道での危険察知については一家言あります。特にバイクは危険察知が遅れると大事故になりますから、道路の状況に集中しておかねばなりません(それが楽しいんですが)。

初心者ならいざ知らず、職業運転手がこんなライン取りしないよな……、と思いながら息子を起こします。

「なぁなぁ、パパ今からちょっとスピードを上げて、前のトラックを追い越すから、運転手がどんな感じかよく見といてくれへん?」

「うん、分かった。」

頃合いを見てサッサと貨物トラックを追い抜き、より離れた車線に移動します。かつ、私たちと貨物トラックの間に数台の車が入るようにします。

「どんな感じだった?」

「何だか少し寝てるみたいな感じ。ウトウトしてたかも。怖いよ!」

やっぱり。ナンバーは関東圏でしたし、過酷な勤務で疲れ切っているのかもしれません。起こしてあげたい気分はやまやまですが、どうしようもありません。自分たちの身を守るのが精一杯です。

「殺人マシン」になりうる自動車を運転する以上、集中力と慎重さは本当に大切です。この車社会で生きていく以上、集中力も慎重さも、小さな頃から育ててゆかねばならない力だと思っています。