8月末、42歳になりました。
幼い頃、大人というものは、世の中を知り尽くしていて、分別もあって、自分とは全然違う世界に住んでいるものだと思い込んでいました。特に40歳を越えた人達。
今、実際にそれぐらいの歳になってみると、全然そんなことはありません(笑)。世の中は分からないことだらけですし、まだ見ていないものも無数にあります。本当に自分が洟垂れ小僧同然に思えます。平知盛ではありませんが、「見るべきほどのことは見つ」なんて境地には、一生至れないという自信(?)があります。
しかし、私はこうも考えます。
「見るべきほどのこと」を見るのに人の一生は短すぎる。もし本当に「見るべきほどのことは見つ」と思うのならば、それは知的好奇心の衰弱、欠如ではないか。
言い訳じみていますかね。あと一つ言い訳を加えさせてもらえるならば、「洟垂れ小僧だからこそ、まだまだ向上せねばならない」という気持ちだけはあります。
世界が何であるか、人生が何であるのか。上述したように、私にはまだまだ分かりません。
しかし、父の死を見送り、我が子を育て出してから、漠然と分かってきたことがあります。
それは、世界は美しく、人生は美しいということです。
もちろん、雄大な景色が美しく、野に咲く草花が美しいことは、私も昔から知っています。
しかし、息子と見る何でもない風景の美しさが、それに勝ることを私は知りませんでした。余命短い父と病室から眺める夕日の切なさ、胸を抉るような美しさは、いつまでも心に残る美であることを私は知りませんでした。
何か特定のものに美があるのではない、世界全体が、人生そのものが美に満ちている。近頃の私にはそう思えてなりません。
42年も生きてきて、大事なことはそれぐらいしか分からなかったといえば、自分の愚鈍さを証明するようなものです。が、やはり思うのです。世界は美しい、人生は美しいと。