受験生よ、山は高く見えているか

おっと、もう12月ですね。あと数週間で今年も終わりとは。さらにこそ信ぜられね。

さっき読んでいた歴史小説にこんな話がありました。自らの和歌をもって詩歌の本家本元たる京都の公家・天皇を唸らせる。そんな荒行を自らに課した徳川光圀が、詩業の行く末を考えているシーンです。

山は遠くから見ているとさほど高くは見えない。しかし、近づいてゆくと段々高く見えてくる。山の麓にまでたどり着くと、とてつもない高さに感じられ、登り始めれば、もう頂はたどり着けそうにないほど遥か彼方の高みにあるように思われる。

これって、レベルは全く違うかもしれませんが、大学入試にも同じことが言えると思います。

難関大学を志望する高校生がいるとします。彼・彼女が周囲を見ると、「○○大学合格なんて簡単だ!」「クラスのビリから○○大学合格!」なんてドラマをやっており、合格体験記にはいとも簡単に合格したかのような話がいくつも載っています。

上記のような話は、あながち嘘ではないと私も思います。ただ、かなりミスリーディングな表現なんですよね。省略が過ぎる。正確に言い直せばこうなります。

合理的な努力を一日たりとも怠らず重ね、凄まじい時間と労力をつぎ込むならば」「○○大学合格なんて簡単だ!」なんですよね(笑)。

ちょろっと勉強して難関大学に入るなんて甘い話は、まずありません。合格体験記にいとも簡単に合格したかのような話があれば、それは執筆者が見栄を張っているか、「合理的な努力を一日たりとも怠らず重ね、凄まじい時間と労力をつぎ込む」ことが普通になっていて、別段難しいこととは思っていない人が書いているかのどちらかです。

さきほどの山の比喩に話を戻します。

○○大学なんて簡単さ、などとのたまっているうちは受験生としてまだまだでしょう。受験生未満だと言ってもかまいません。本格的に受験勉強を始め、学びを深めていくと、これは一筋縄ではいかないぞと感じるようになり、○○大学の入試過去問に触れだす頃には恐怖感すら覚える。(倍率が3倍の大学だとすれば)こんな難しい問題を解いて、右に座る受験生と左に座る受験生に勝つなんてことが本当に可能なんだろうか……。大体、こんな難問を自分は解けるようになるのだろうか……。

そうした恐怖感や焦燥感に駆られ必死で勉強するようになって初めて、一人前の受験生と呼べるんじゃないかと私などは思います。厳し過ぎかもしれませんが、モチベーションが維持できないなんて言っている間は、山を遠くから眺めているだけの傍観者でしょうね。真剣に山に取りついて上り出した人間が「登山のモチベーションが保てない」なんて言いますか?そんなことを言っているクライマーには滑落死か凍死か知りませんが、死が待ち受けているだけです。

私が受験生に伝えたいのは、登り始めたなら、頂がどんなに遠くにあるように思えても、絶対にあきらめるなということです。恐怖感や焦燥感はあって当たり前。登り続けたものだけが頂にたどり着ける。逆説的ですが、山頂が遠くにあると思いながらも真剣に努力できる人なら、山頂は案外近いものです。

山頂がたどり着けそうにないほど遥か彼方の高みにあるように思えるのは、真剣に受験勉強に取り組んでいる証拠。心を強く持って、時に学校なり塾なりで信頼できる人にアドバイスを受けながら頑張って欲しいと思います。

私もまだまだ登り続けなければならない身だと自覚しています。これからも精進精進。