久々に国語関連の話をば。
中学入試や高校入試を含め、現代文を教える人間に必要な素養って何だと思われますか?
論理性や語彙力などが必要になるのは当然のことなんですが、古文や漢文の力も絶対に必要な素養の一つだと思っています。
現代文なのになぜ古文や漢文が必要になるのか。それは、古文や漢文が日本語の基層をなしているからです。古文や漢文の語彙・文法・背景を知らずして、現代文が精確に読めるはずもないし、ましてや教えられるはずもない。
少なくとも明治期までは、古語、そして漢字や漢文法が、書き言葉を支配していたと言っても過言ではないでしょうし、大正期以降も知的階層の共有している文章は、その流れを引いているわけです。
入試で題材となる文章は、知的な文章なのであり、それを読み解き教えようとするならば、教える側もそれ相応の古文・漢文に関する教養(現代文だけに偏らない国語に関する知識)を積まねばならない。そして、そうした教養を高めて現代の文章に斬り込むという気概は、国語を教える者に必要欠くべからざるものです。
かく言う私も浅学非才の身。指導の質をさらに上げるべく、古文や漢文に関する教養をまだまだ高めてゆかねばなりませんが……。
高校生の頃の国語の先生方を思い出してみるに、古文や漢文に造詣が深い先生は、間違いなく「深い」現代文の授業をして下さったように思います。逆に古文や漢文の知識がない先生の授業は「浅い」。古文・漢文を教えられない or 知識のない人は国語教師にあらず、とその頃から思っていましたので、そういう先生の授業は自主的に自習に切り替えて勉強しておりました(イヤな高校生だな)(笑)。
大学受験の国語はもちろんですが、たかが(といっては悪いですが、受験生が小学生だということを考えればやはりそう表現したい)中学入試の国語でも、教える者にとっての古文・漢文知識の重要性は変わらないと思います。
俳句の解説一つをとっても、談林風俳諧・蕉風俳諧をまがりなりにも理解している人とそうでない人では、解説の深みに差が出るでしょう。物語論を説明する際も、近松の虚実皮膜論を知る人とそうでない人では、差が出てくると思います。当然、小学生にそんな小難しい話をするのではなく、そのエッセンスを伝えるということですけれども。
そんなわけで、まだまだ私も勉強せねばなりません。まぁ、楽しい勉強なんですけどね(笑)。
上記の話とは逆に、現代思想的なトピックや社会的なトピックを知っておくことも、国語教師の大切なつとめだと思いますが、これはまた別稿にて。