敬体か常体か

敬体とは、原則として「です・ます」で終わる文体のことを言います。「ですます体」とも言います。

一方、常体は、原則として「である」「だ」で終わる文体。「である体」とも。

当初、このブログはどちらで行こうか少し迷ったんですが、ブログの趣旨に記したとおり、堅苦しい感じにしたくなかったので、あえて敬体を採用しました。(もう十分堅苦しいわ!と言われそうですが…。)

しかし、本来書きやすいのは常体文の方でしょう。文章に客観性を持たせやすいことに加えて、文をスッキリとまとめやすい気がします。あと、筆者の権威を感じさせるなら断然常体です。実際、学者の発表する論文などは、ほとんど常体で著されています。

この辺りは色々議論があるところでしょうが、個人的には、敬体・常体の選択は読者側のイメージだけでなく、筆者側のイマジネーションをかなり束縛しているのではないかという気がします。

例えば、夏目漱石の「坊っちゃん」の冒頭部。
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。」

敬体にするとこんな感じに。
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしています。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事があります。」

強情な坊っちゃんはどこかへ消え、えらく行儀の良い(そして無鉄砲な自分にちょっと愛情を抱いているような)坊っちゃんが出てくる気がします。いくら漱石でも、敬体ではあの小説を書けなかったでしょう。

(注:「小供」は原文そのままです。漢字の書き取りでは「子供」と書きましょう。)

ちょっと尻切れとんぼ気味の文章ですが、今日はここまで。