当塾の裏手には、三光神社という社があります。この神社を抜けると、大阪陸軍墓地(真田山陸軍墓地)。
陸軍墓地というと、陰々滅々たる場所をご想像なさるかもしれませんが、そんなことはありません。緑が多く、近隣の人のちょっとした散歩場所になっています。何時行っても、訪れる人が少ないので、大阪市内とは思えないほどのんびりした時間が流れています。
当塾から徒歩で2分程度ですので、私にとっては生まれた頃から慣れ親しんでいる場所。我が家では、この場所を厚かましくも「裏庭」と称しております(本当は国有地ですけれど……(笑))。公園を合わせて3ヘクタールほどの「裏庭」は、木々を見ながらブラブラするもよし、シートを持っていって寝転がるもよし。
今の時期は桜が満開でして、とても贅沢な眺めを楽しむことができます。仕事までちょっと時間があるような日には、新聞や本を片手にでかけるんですが、なかなか楽しい時間であります。
この場所の歴史的経緯を話し出すと、ものすごく長くなってしまいます。ちょっと手短に行きましょう。
大阪陸軍墓地は、帝国陸軍が設立した軍人用の墓地でして、日本でもっとも古いものになります(明治4年設立)。規模も日本最大。なぜこの墓地が玉造にあるのか。それは、近代陸軍の礎が大阪に置かれたからです。
近代陸軍の祖である大村益次郎は、明治初期、この大阪に陸軍組織を築き始めました。江戸(東京)では、西国の旧大藩、具体的には薩摩(鹿児島)が事を起こした場合に対処が出来ないからです。実際、明治10年には西南戦争が起こり、大村益次郎の考えの正しさが証明されることになります。
そんなわけで、この大阪陸軍墓地には、西南戦争以降の戦死者が多く眠っています。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦。日本という国が封建国家から近代国家へと変貌してゆく過程で支払った犠牲、そして、支払わされた人々の悲哀が目に見える場所だと言ってもよいでしょう。
捕虜であったドイツ人や清国人のお墓もあり、調べ出すと、日本の近代史をどこまでも考えて行かねばならない場所でもあります。実際、この場所を研究対象に据える学者もいらっしゃいます。
もともとは陸軍省の所轄地でしたが、現在は財務省が管理する国有地(だったと思う)。大阪市が無償で借りた上で管理しています。なお、一部分は学校に割譲されておりまして、これが私の母校でもある真田山小学校。塾に通う在校生に、もともと墓地だったんだよと話すと怖がるので、話したことはありません(笑)。
ちょっと話がかたくなりました。詳しい話をお知りになりたい方は下記リンクをどうぞ。