美しいものに触れて感動すること、涙が出るほど心を震わせることが時にあります。音楽、物語、旅先の風景、映画、写真、子の何げない一言、人から受けた親切。
いい歳をした大人が、そう何時も涙を流していても変な気がして、黙っていたり、話をそらしてしまったりするんですが、その一方でこの思いを誰かに知ってもらいたいという気持ちがどこかにあります。
言葉にするととても陳腐になってしまうんですが、人は心の震えを感じるために生きているんじゃないか、心を震わせるために日々暮らしているんじゃないか、などと思うことがあります。
高校生だった頃、歳を取ると日々の生活に汲々として、何かに胸打たれるということがなくなるのではないかと思うことがありました。周囲の大人を見ると、無感動に生きている人が大多数に見えたのです。私にも、この心の震えが止むときが来るのではないか、そしてその時、人生には何の意味があるのか。
今になれば分かります。大人だって、心を震わせている。声に出さない、涙を流さないだけで、心を震撼させることが止んでいるわけではない。いや、むしろ、大人の方が平板なものの見方から脱して、より深く心を揺り動かされているとも言える。何も恐れるには足りなかった。
「勇気をもらう」「勇気を与える」という表現がありますが、以前の私には、かなり違和感のある表現でした。「何を甘えたことを言っているんだ。何を傲慢なことを言っているんだ。勇気はもらうものじゃない。与えるものでもない。勇気は自分で絞り出すものだろう。」
しかし、これも今になってみれば分かります。「勇気をもらう」としか言えない言葉や芸術表現。理屈ではなく直感的に自分の心が揺り動かされ、何か駆け出したいような気分にさせられる。そんな日があることを、否むことはできません。
感動すること・心を震わせることができなくなった時、それでもこの世が生きるに値すると言えるか。私にはそれを肯定する自信がありません。