もし仮にタイムマシンがあったとして、今は亡き誰かに教えを請えるとしたら、あなたは誰を選びますか?私はこの問いをよく考えるんですが、日本人だったら本居宣長先生と契沖先生ですね。
本居宣長先生には私淑して勝手にノリー先生とお呼びしているんですが(笑)、今の三重県松阪市にお住まいでしたから、週一ぐらいなら喜んで大阪から通塾させていただきます。入塾を許されたなら、ノリー先生と話すのが毎週楽しみで仕方がない気がします。
本居宣長先生は契沖先生の学統を引いているんですが、この契沖先生は晩年、当塾のすぐ近所、歩いて数分の所にお住まいでした(大阪市天王寺区空清町にある円珠庵)。「先生、万葉集のこの歌の解釈を教えて下さい!」ってしょっちゅう質問しに行ってウザがられそうなんですが、Wikipediaによると、「円珠庵にて62歳で入寂。最後の一日まで、弟子に教授し続けていたという」とのことなので、意外に快く迎え入れてくださったのかもしれません。契沖先生の代表的な著作『万葉代匠記』は、万葉集の注釈書。水戸徳川家主君の徳川光圀(水戸黄門ですね)の依頼による学術書です。
さて、古典ラテン語の学習をしていると、カエサルやキケロやウェルギリウスの著作から採られた文章が例文として挙げられていることが多いんですが、「本当に良いこと言ってるなあ」「2000年前の言葉なのに完全に今に通用するやん」「すんごく心に染み入る表現だなあ」等と心底思わされるのは、たいていセネカ先生なんですよね。何だろう、波長が合うというか、すっと納得できる話をされるというか。是非この人のもとで色々と学びたいなと思わせるものがあるんですよね。
例えば、人生を無為に送ることを戒めてセネカ先生はこう言います。
そのようなわけで、ある人の髪の毛が白いとか、顔にしわが寄っているからといって、その人が長く生きてきたと認める理由にはならない。その人は、長く生きていたのではない。たんに長く存在していただけなのだ。
ある人が、港を出たとたんに、激しい嵐に襲われたとしよう。彼は、あちらへこちらへと流されていった。そして、荒れ狂う風が四方八方から吹きつけ、同じところをくるくる引き回された。さて、どうだろう。あなたは、その人が長く航海していたとみなすだろうか。いな、その人は長く航海していたのではない。たんに長くふりまわされていただけなのだ。
セネカ(中澤務訳)『人生の短さについて』より引用
う〜ん、痛烈ですね(笑)。この主張のベースには、下記のような考えがあります。
われわれは、短い人生を授かったのではない。われわれが、人生を短くしているのだ。われわれは、人生に不足などしていない。われわれが、人生を浪費しているのだ。
ばく大な王家の財産も、それを手にした持ち主が無能なら、あっというまに消え去ってしまう。だが、どれほどささやかな財産でも、有能な管理人の手に委ねられれば、上手に運用されて増えていく。これと同じように、われわれの生涯も、それをうまく管理できる人にとっては、大きく広がっていくものなのである。
セネカ(中澤務訳)『人生の短さについて』より引用
では人生を広げるにはどうすればいいのか。続きはウェブにて、じゃなかった、実際にセネカ先生の著作を手に取っていただければと思いますが、その広げ方=人生の過ごし方も、私には心から好ましく感じられるものです。簡単に言えば、「多忙な生活から距離を置き、閑暇の中で徳を求めて生きよ」ということなんですけどね。私はセネカ先生もその一員である、ストア派哲学者が大好きです。
最近よくありますよね(いや、最近じゃなくて大昔からですか)、いわゆる「インフルエンサー」が訳の分からない犯罪まがいのことをして炎上したり、厚顔無恥な政治家がズルをしたり。そうした事件を見ると、よく思うんですよね。
「お前ら、一回セネカ先生の本読め!」
まあ、誰も読んでくれないでしょうが……。仮に改心しても、セネカ先生は苦々しい顔で入塾を断りそうですし(笑)。
セネカ先生に入塾許可を頂けるように頑張ろうっと!


